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完全な本について

※ この作文は、2012年頃、知人が発行するフリーペーパーに寄稿したものです。

本が好きな人には、具体的に好きな本があると思う。例えばその中でも珠玉の一冊。でも、その本ですら、表紙から裏表紙まで、目次から奥付まで、序章から終章まで、全ページ欠かさずどこをとっても大好き!……ってわけじゃないかもしれない。

例えばそれが小説なら、山場ってものがあるだろう。どこが山場と感じるかは人それぞれだけど、それ以外は谷場ってことになるから、そこだけ摘まんでいえば、それほど好きじゃないかもしれない。

だからって、山場以外を削れば結果的に密度が高くなって全ページが好き、とはならない。そりゃそうで、本は全体で一冊だから、流れというものがありましょう。谷があってこその山。この一行のために一冊がある、という本が、その一行しか面白いところがない、ってわけじゃない。

流れ、じゃない本、例えば魅力的な図鑑ならどうだろう。本は、流れを追って収まるだけでなく、ぱっと開ける利便性から、データベースそのものをどぼん! ……と収納できる。それが読者にとって魅力的な系のものならば、どこを開いても楽しいかもしれない。ただ、そういうのって、その頁を引く動機とか内容とか、本以外から接続されていて、それも本そのもの全てが楽しい、ってわけでもない気がする。開かれないままのページがあるかもしれないし。

そもそも、本に期待される役割から、完全な本が必要とされているわけではない。

ただ、本がああいう形をしている以上、もう隅から隅まで、全部が全部大好き、楽しい! ってのが、あってもいいんじゃないかと思う。

それは、全ページ無駄なくハラハラドキドキの、とんでもない本を作るぞ、って途轍もない偉業のことではなく……単に作り方の問題って気もする。誰にとっても面白い本、という意味ではない。ジャンルの問題か。本を、流れでもなく、またデータベースでもなく。その形の、すべてが面白くあろうとする本であれば。

そんな本や案、ご存知でしたら教えてください。

こんなことを思いついたのは……「本が好きな人には、具体的に好きな本があると思う」とまわりくどく書き出したけれど、「本が好き」と「具体的に好きな本」には結構、距離がある気がしている。「本が好き」だけど「具体的に好きな本」が実は無い。実は読んで無い、というより、沢山読むけどそのトータルで好き、とか。そんなことがあってしまえるような。僕なんかが正にそうで、僕はしばしば「本好き」なフリをするけど、特に珠玉の一冊はない。そもそも読むことすらあまり無いので、機能としての本が好きというわけでもない。まさに悪しき印象、幻想のみの、中身の無い本好き。

でも、そんな虚妄を引き受けてしまえるような、本があればいいなと思った次第です。