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まちは燃えているか

各種の話題に「まちづくり」というのが、たまにある。僕にとってはたまにだが、むしろそれが好き、最大の関心事、という人も多いだろう。行政から、又は建築から、文化から等々ハードからソフトまで色んな分野における「まちづくり」の話というのがある。なので意識せずともたまには聞くことになる。話として聞くのは大抵、遠い町の成功実例で、まあ聞いていて楽しいし、そりゃ良い話じゃん、とよく思う。専門家の知見と采配を導入しつつ、町の住人たちが話し合って、町を作る、素敵だな、と。

しかしながら。

自分自身にそれを当てはめることはできない、と思う。平日の日中は仕事に出かけ、それ以外は家の中か、何処かに出かけているか、だ。灯台下暗し、照らす先(出先)と灯台の中(家)は明るいけれど。よく考えてみれば「住んでいる町」には何の関心も無い。いや、関心を持つにしても、自身の生活と直接関係しない。まちがつくられるとして、結局とのころ、一体、何が?

自分が住む町への一番の関心は、先ず駅に近いか、その駅は便利か。それはつまり、違う町への接続しやすさ。住む町の様態とは関係ない。後はスーパーやらコンビニが近いか、とかだけれど、それは折りよくそういうお店ができるかという民間の商業的な都合なので、まちづくり、とも違うような気もする。

よく、ドラえもんなんかで、子供たちが罰ゲームに「逆立ちで町内一周」を課したりする。これ小さい頃から「へー、こいつらには「町内」の一言で通じるような地域感覚があるんか」と不思議に思ったりしたもんだ。別にうらやましいほどではないけれど、無いもの持ってやがる、と。他の地域ではもっと「まち」の範囲が明確なのかしら。これはただの物語における便宜的な表現に過ぎないのか。

もしかしたら、実は我が町でも……堺市北区東浅香山町でも……まちづくり、の専門家を招いて住民と話し合いが行われているかもしれない。ポストに入った案内を見逃したりしているだけで。平日の昼下がり、住人たちが話し合って、好ましい形へと何かが決まっていく。まちはつくられる。それを僕はたまたま出向いたシンポジウムで登壇者が紹介する一例で知る……そんなことを想像すると、悲しい気持ちになりますね。