大阪市の廃止を巡る住民投票が終わった。結果は前回同様僅差で否決。政治・行政は心底どうでもいいが、賛否を見事半々とする政策と、それに直接投票するという点において、やはり何かと考えさせられるものがあった(かつて「笑っていいとも」内のコーナーで「1/100アンケート」なるものがあったが、「1/2アンケート」も難しいのではないか)。近年になって興味を持つようになった「盆踊り」が、区政に直結することもあったかもしれない。と言っても大阪市には在勤仮在住しているだけで、投票権はないのだが。
僕は反対派ということになるが、正確に言えば単に賛成しないだけのこと。ぱっと出てきた案を、殊更に反対する必要もないが、その案は別に必要ないので可決されても困る。なので、そも賛否の派に別れなければならない二者対立構造からして腑に落ちないことがあった(この伝で言えば「賛成派」だけが投票し、既定投票率以上で可決、というスタイルが自然に思える)。言うまでもないことだが、反対派が停滞を望むわけではない。
(新構想は、子供が「新しい机じゃないと勉強できない」と駄々を捏ねるに似る。勉強をするのは机ではない。なので却下するわけだが、しばしば新しい机が勉強の加速材料にはなり得る。新構想を「内実を伴わない詐欺」と批判する人もいたが、詐欺はしばしば経済を(かき)回す。がいづれにせよ、それは望ましい形ではない)
「ただの案(もしそれが正しい案なら、全国の主張都市も間違っていることになる)」が、それだけの支持を得たのだから、僅差の結果は実質反対側の負け、にも見える。或いは、首長と議席を占め、この頃中でメディア露出機会も多い中、政党を離れてピンポイントで政策が否決された点においては惨敗とも言えるのか……。ともあれ何かと禍根を残す結果だし、そも投票とは何か、と思う。
さて、ここで無知を晒してまで書き留めておきたいのは、結果反対派であったにも関わらず、同じ反対派の意見には同調しかねる点が多数あったことだ。普段であれば、言説を補強してくれる頼もしい感すらあるのだが。
多くの文化系左派(というのは僕が昔勝手につくった造語で定義あやふやですが)は今回、反対側に回った。例によって立憲民主党や共産党ほかも反対に回った。一方で自民党も反対に回った。この地方においては、主に国政で為されている左右対立とは異なる軸になる(そも現代において左右という分類が成り立たないとも言えるだろうけれど)。現状維持という「保守」を、日頃保守的な政党を批判する各所が唱えることになった。無論、全ては是々非々だからそれはいい。けれど、普段と違う文法を活用することになる。そこに幾つかの苦しさが見受けられた。
前置きはこれくらいにして、以下は箇条書き。普段頼りにしている人々に盾突く形になるため、愚かしい意見となるかもしれない。まあ、愚かなのでそれは仕方ない。
二重行政は既にない
そも二重行政は件の会が設定した問題なので、取り合う必要がないのだが、仮にその設定に沿うとして「既に二重行政はない」と反対側が反論する根拠は、最近の府市協調による。実際に言質を取る形で、知事の「二重行政はない」という過去発言を取り上げる反対派がいたように思う。あれ、ならば、それを一時的な人事でなく制度に落とし込むこと、は肯定的な手段になってしまうのではないか。この点の理屈がよくわからなかった。
また、コストの面において、どちらがより安上がりか、という議論を両者ともしていた。実際にどちらが安上がりかはわからないし、恐らく真には誰にもわからない信仰の問題になる。しかし、府と市がそれぞれ行政を行うことによる冗長性の確保のためには、むしろコストかかってなんぼじゃい、二重こそがイカす、という主張を、反対派はせねばならなかったのではないか。まあ、それしてたら負けたと思うけど。
再住民投票自体が有り得ない。二度漬け禁止
もしこれが例えば(今回反対派の多くが賛成するであろう)「選択的夫婦別姓制度」などであれば、一度僅差で否決されても、五年の世論の変化を経て、再度チャレンジしたいところだろう。そして保守派から「一度否決されたはず、再び持ち出すのは卑怯」と言われ、腸が煮え繰り返る思いを味わうことだろう。
それどころか、前回は僅差ほどには多くの人がそれを待望し、且つ、それを推進する政党が引き続き選挙でも支持されて議会を掌握し、所定の手続きを経ているなら、再び住民投票を行うこと自体はむしろ健全な民主主義だとさえ言える……のではないかしら。明らかに再議論が的外れなら、それ以前の制度が跳ねるべきで。あまりに多くの人がこれを言うので、自信ないけど。
もう二度と戻れない
もしこれが例えば(今回反対派の多くが賛成するであろう)選択的夫婦別姓制度などであれば、反対派は「旧き良き家族制度に二度と戻れない」と主張するだろうし、それを反対派は鼻で笑うところだろう。
例え明らかに「良さそう」なことであっても「二度と戻れない」という脅しは、わりと通用しかねない。それを、言うべきなのだろうか。
(適例かわからないが、離婚を検討する人に対し「でも離婚に踏み切ると、二度と在りし日には戻れない」という揺さぶりをかける、手法があるかもしれない。それは、適切なのか)
それに、二度と戻れない、のなら、そっちの方が間違いではないのか。その法律がない、というなら作ればいい。仮に可決されたとして将来「くっ! 特別区は間違いだったと今や誰もが認める事実だが、もう二度とは戻れないので後は座して死を待つしか無い……!」みたいなことになるのだろうか。
勿論、気軽に社会実験されても困るので「一回やってみたらいいやん!」は論外だ。この精神の賛成派は多いと思われるので、不可逆性をタテにする、という気持ち自体はわかるのだが。二度と戻らないのは、そこに費やされた時間。
(その昔、区政を題材にしたシミュレーションゲームがあって、リアルにも「条例の制定」が再現されていた。といっても、予め容易された「条例の候補」を選んで、区議にかけ、賛否を問うだけのもの。しかし、この賛否の根拠が特に作り込まれていないため、否決されても何度も議論にかければ(連打すれば)やがては可決された。ので、まだ所詮はリアリティに欠けるおにぎやかしのおまけ機能の類……といったことを思い出した。アートディングの「トキオ 〜東京都第24区〜」。更に余談だが、2ちゃんねる初期の画面に掲示されていた「出された御飯は残さず食べる」「転んでも泣かない」というフレーズは西村のオリジナルではなく、このゲームの条例候補が元ネタになっている、ことは何故かあまり話題にされない)
このコロナ禍にやることではない
この意見も多かった。が、文化系こそが「(福祉や医療や教育や、或いは各種災害からの復興のため)文化・芸術どころではない」と、この日本の通時において、言われ続けていたのではないか。或る程度は物事の独立性を認めなければならない。
住民投票自体が間違いかもしれない
これは反対派の意見というより、こんな重要なことを一般市民が住民投票で決めてしまうこと自体が間違っている、というもの。しかし散見する限りは(必然)反対派の意見でもあった。
しかし反対派の多くは、国政選挙の度に「選挙に行こう」(国政の保守派は投票率が低くても利する? ので、これを呼びかける派と反対派はだいたい一致する印象)と積極的に呼びかけていた層にも思える。若い人にも(カジュアルさを保ったまま)政治参加を促そうとしていた人たちだ。
今回住民投票なのは地方自治法によるが、もし他の政策同様であれば、代議制によって決められる。ということは、住民投票でなければ、既に大阪市廃止は可決されていることになる。幸い、今回は政党は支持されつつも、政策は否決された。やった甲斐があったろうし、できることなら国政を含め、全てそうしていただきたいくらい。
折角、政策に直接投票できるのに、これを忌避しては、結局のところ、政治自体が不可能だ。或いは実際に、不可能なんだろうと思う。
また、「二度やるのか」にも関係するが、投票行為自体が莫大な費用がかかるからアカンという意見もあった。それもわかるけれど、それを言いだしたら民主主義が成り立たない気がする。
(代議でも直接でもなく、専門家によって正しい結論を出して欲しい、という意見もあったけれど、まあそれは、それこそは普段から僕も思うところだけれど、その専門家の動員は、やはり代議によって為される、ので意味がない。客観的に正しいと判断される専門家もいない)
(その選定すら専門家の熟議によって行うとすれば、そもそも政治家や選挙という概念もなくなる。それ、ができるなら、良いと思うのだけれど、古今東西そういった例は寡聞にして聞かない(真の正解が一つだけで、時間をかければそこに辿り着く、ので思想の対立は本質的にはない、という世界かしら)。ので、理論上の理想論につき、レイヤーの違う話になる。面白そうではあるけれど)
大阪市を守ろう
しかし、その大阪市にせよ旧26区の現24区にせよ、忌むべき役人どもがかつて引いた線なので、特別区に対して殊更に守るべきものなのかはわからない。新世界アーツパーク事業に始まり、くだんの会が台頭する以前から、文化系の人々は「大阪市」なるものに苦渋を飲まされてきた、と聞いている。いづれにせよ行政とは、そもそも、ロクでもない。
それならば、まだしも、四区に縮小されて、選挙によって選ばれた区長の方が、話し合いはしやすそう……かはわからないが(相当は特別区でなく大阪府となり、よりややこしくなるんかな)。相対的に大阪市が「守るべきもの」になってしまったのはへんてこりんにも思える。無論、この投票の本丸は「大阪市派」でなく単に「大阪市解体反対派」ではあるのだけれど、起きやすい錯誤ではある(……と、自分にも言い聞かせねばならなかった)。
賛成派はマッチョで怖い
くだんの会とその支持者は、それはまさしくそうなんだけど、反対派の中にも多く「カジノなどの改革開放政策やらで、中国人や韓国人だらけになったら困る」という排外主義的な意見とか「××区と一緒にされるのは嫌だ」という地域差別な意見もあって、怖い。今回、反対多数になったのは、そういうナチュラルな差別感覚にも下支えされているので、そんならいっそ、という気持ちもある。
この辺が特に、日頃の保守的な価値観との転倒があった。まあ、二択なれば、完全に怖い怖くないが綺麗に別れるはずもない。この点も悩ましいところ。この点に関する反対派の葛藤も見受けられなかった。本当に怖いのは、是々非々でなく党派性そのものである。
(本件は「くだんの会への信任投票ではない」ので、それ故に反対派が可決されたわけであるが、反対派はかえって「政策はくだんの会の野望である」と結びつけた不信任を呼びかけた。この辺も複雑)
結論
結局のところ、政治やら行政なんてどうでもいいし、根底から何かが間違っているし、余計な分断を生むなど有害なのだから、本件に限らず、考えるだけ無駄である。そんなくだらないことは、やりたいやつが(幸い、沢山いるらしい)勝手にやればよい。ふつうの人間ができること、大切なこと、なすべきことは、ほかにも多数ある。
政治も大切、といっていた文化系左派も、結局のところ、間近な問題にあっては、民主主義そのものを毀損する手法に陥っていた。お互い、政治に向いていない。
顧みるに、そもそも投票による決議とは、集合知による最前の選択手段ではなく、その決定を裏打ちする、ただの責任の分散方法(或いは逃れ)に過ぎない。悪いことが起きないための選択ではなく、悪いことが起きた時に「でもこれが多くの人の選択でしたでしょ?」と言うための。たかがそんなものに加担するだけ無駄である。
この山本、そも政治に対する態度は一貫しており(これ言ったら滅茶ひかれるけど)これまで一度たりとも投票に行ったことがないし、今後行くこともない。気の迷いでこのたびの住民投票に心を割いてしまったが、結論としてこの思いをより強くする、きょうのわんこでした。