投稿者「akubi」のアーカイブ

休み、そして走れ(「運動展3×3±0」より)

自炊、即ち一般家庭内での料理・食事という営みを、法律で禁止するか、又は台所の設営に高い税金をかけるなどして、原則やめよう。そんな無茶な、と思われるでしょうが、まあお聞きください。

今現在の日本において、外食頻度の個人差に関係なく、食事は「家で自炊が基本」として位置している。毎日外食の人でさえも、それが普通だというより自虐と罪悪感と悲壮感をもって「毎日外食生活サ」などと言う。風呂がない家は今も多くあるが、台所が全く無い家は殆どない。

履歴書の手書き信仰を笑う人も(或いは個人の偏見によれば、そういう人こそ)自らの手で作る料理は良いもの、それが基本、としている。

もし友人が「一日三回必ず地にひれ伏して神に祈りを捧げる宗教」に入信したと聞けば大変そう感あるが、冷静に考えれば一日三回食事をする方が、身一つではできない分、大変である。まして三回とも自炊(弁当)であるならば、後片付けも大変だし、そも献立を考え続けるのも至難の業。ジェンダーの問題も根強い。

挙句「一汁一菜でよいという提案」だ。それで「一汁三菜を用意せねばならない呪い」から解放した気になっている。五十歩百歩、奴隷の鎖自慢。こちとら「一」たりとも作りたくないっつーの。

一人一人が自動車を運転するより交通機関を利用した方が環境によい、というように、自炊も、たまの贅沢や気分転換には悪くないけれど、健康や環境のためにも基本は飲食店や出前を使いましょうね、としてほしい。

(実際、各家庭で調理するより環境に良いのではないか。フードロスは増えるかもしれない。が、食品廃棄と、より深刻な食品が行き渡らない問題は別だろう)

確かに現状だと毎日が外食なら栄養過多に偏り負担も大きい。が、全員毎日外食となれば健康に配慮した店も成立するだろう、多分。それに、栄養や費用に配慮し続ける自炊だって本来は困難なのだから。同様に金銭的な負担も現在よりは減るだろう。

外食が普通となったら街が賑わう(アジアでは普通のことだが)。飲食店は厳しい業態なので「脱サラしておしゃれなカフェバーやりたい」つったら、世の中を甘く見るなと罵られるのが相場だが、全員毎日外食だとまだ希望が出てくる。

僕は夜遊びが好きだが、そういえば一般的な家庭は、会社や学校から帰宅後、基本的に外へ出ることがないのだった。それでは息苦しい。平穏な家庭ならまだよいが、そうでないならばせめて、家族と過ごすにも周囲の目がある方がよい。

「食洗機導入したらQOLあがったわ〜」なんて言ってる場合じゃない。今すぐレシピを墨で塗りつぶし、冷蔵庫を窓から放り投げ、ガスコンロを叩き壊し、食器は埋めて土に還そう。自炊こそが諸悪の根源である。

救い放題(「運動展3×3±0」より)

And then, one Thursday, nearly two thousand years after one man had been nailed to a tree for saying how great it would be to be nice to people for a change, a girl sitting on her own in a small café in Rickmansworth suddenly realized what it was that had been going wrong all this time, and she finally knew how the world could be made a good and happy place. This time it was right, it would work, and no one would have to get nailed to anything.

Douglas Adams”The Hitchhiker’s Guide to the Galaxy”

それからそうして「たまには他人を大切に」と説いたばかりに一人の男が磔にされてから二千年ほど経った或る木曜日のこと、リックマンズワースの小さなカフェに座っていた一人の少女がふと、これまでずっと何が間違っていたのかを悟り、如何にして世界を健全で幸福な場所にできるのかを、ついに知った。今度こそは正真正銘うまくいくはずだったし、誰かが磔にされる心配もなかった。

ダグラス・アダムス「銀河ヒッチハイク・ガイド」

「てんでばらばら三人会」への緊急出張運動展にあわせ、幾つかを新作に差し替えようと意気込んでいたけれど、何んにも思いつかない。元より無理に捻り出すものでもないのだけれど。

そんな自分を棚上げしつつ最近つくづく思うのは「もっと良い案があるはず」ということ。コストも手間もかからず、ちょっと角度を調整するとかだけで、この拗れに拗れた現代社会の諸問題を一挙解決する方法が。

悪魔を退ける唯一の武器「銀の弾丸」は、スッカリ「そんなものは無い」と続くための慣用句に成り下がってしまった。乱麻断つ快刀ルパンに奪われし。「細やかな問題を地道に一つずつ解き続けるしか道はない」そうだ。そして必ず相応の費用もかかる。その予算を獲得する、ひいてはまわりくどい書類を拵えることこそが、最も気の効いた営為というわけだ。

池で溺れて助け求める人を目前にして、柵を作る募金を呼びかけることが最速にして最善手だというような、はがゆさ。しかし、それでもその犠牲を踏み台にして募金を今すぐはじめないことには悲劇は繰り返されるばかり、という理知的な脅し。

なにか、ないのか? 直接的で元手も要らず、今現在は勿論、将来もまとめて、この世界を良くする案は。

抽象的に嘆いていても仕方無い。良案の一つを例示しよう。といっても僕が考えたわけではないが。それはいやしくも「食べ放題」である。近所にある中華料理屋はランチバイキングをやっている。千円札一枚で、酢豚もエビチリも麻婆豆腐も唐揚げも焼きそばも炒飯も厚焼き卵も野菜炒めも、好きなだけ食べていいという真の桃源郷。普通なら、その内の一品を主役に仕立てた限りある定食だけで千円近いというのに!

お店側は一体何故このような自殺行為を? と思いきや、予めまとめて作り置くだけで注文聞きも配膳もないので人件費が浮き、十分に利益が出るという。見事な三方良し。これほどまでに掛け値無しのウィンウィンがあろうか。一体誰が最初にこれを思いついたのだろう。

食べ放題のように一切衆生を救済する術はないものか。そんなことを考えながら連日食べ放題に通い詰める内に、元より三桁越えの体重が更に10kg増えた。単に堕落しているようにも思えるが、かつて釈迦が悟りを開くために断食を敢行したと思えば、その真逆を攻めていくのも悪くはないはず。

近所の中華料理屋は感染予防のため、ランチバイキングをやめた。

8月3日にAmazonで風呂桶を買った

自宅に風呂がないので日々風呂屋通いをしている(関西では銭湯とは言わない、らしい)。歩いて十分のところにある風呂屋が最も近いけれど、夜更かしする時間帯により、また曜日により、好むと好まざるに関わらず、違う風呂屋にも行く。隣駅だったり、早朝の通勤前だったり。行かない日もある。

だからか、日々のことであるはずなのに、不思議と慣れたものではない。ひげそりを忘れたり、歯ブラシを忘れたり、靴下を忘れたりもする。それら突っ込む手提げ袋も、どっかいったりして時折変わる。見つからなければビニール袋に突っ込んだりもする。

そんな風に持って行くものを忘れるのはチャンチャンで済むけれど、持ち帰るのを忘れたら大変。これが、続く時は続く。買ったばかりのシャンプーに限って。翌日に忘れものを尋ねたりするけれど、そんな時に限って、そこへは行かない日が続いたり。連続して尋ねたりすれば「忘れ物を騙って物品を調達しようとする異常者」と見られないか、ひやひやする。

で、先日、これを買った。

 

レック YUNOA ( ユノア ) 底ゴム付き 湯おけ ( パープル ) 防カビ ・ 抗菌 BB-105

桶は、風呂屋にケロヨンの黄色い奴が沢山あってそれで不便ない。で、そこに何時も自分のシャンプーとか歯ブラシとか入れて……で、入れっぱなしで帰ってしまう。これが忘れ物の原因。なので、自分で桶を持参し、それを手提げ袋の代わりにすれば、どうあっても持ち帰り忘れることはないという寸法。なんと画期的なアイデア……ではなくむしろ、古き良き、漫画とかでも描かれる、ステロタイプなまでの、定番風呂屋通いスタイル。

で、その作戦が功を奏し、忘れ物がなくなりました。めでたしめでたし。

想定した忘れ物防止以外に役立ったこと。行き帰りがシームレス。手提げ袋に着替えを詰める、中身を確認する必要がない。当然ながらフタがついてるわけじゃないので、入ってる、載せる、だけ。風呂屋について、着替え類と風呂用品類を分類するのが何となく手間だったけど、上に載ってる布類をばっとロッカーに放り込んで、残りはその辺に置いて、服を脱いだら持って行くだけ。

あといづれも湿気を含むものなので、袋に入れて不健全に湿らせたままにしておくより放っておいても良い感じ。

こうした用途としては残念なところ。当然ながら容量はちと小さい。普通の家庭用シャンプーとかだと大き過ぎる。あと下着類をタオルで覆って見えないように工夫せねばならない。

あと、両手が塞がるので、行き帰りの寄り道がしにくい。まあするけれど。スーパー行ったりするけれど。せめて取っ手があったらいいのに、と思ったりもする。風呂通いに特化した風呂桶を開発して欲しい。

そんな不便ともあわさった予想外の効能。最近、風呂の帰りに、裏手にあるテイクアウトの店でフライドポテトを買って帰ることがある。すると店員に「この近くに風呂屋があるんですか?」と話しかけられた。「ありますよ」「何処ですか。私も入りに行きたいですね」「丁度ここから真っ直ぐ行って、すぐですよ。あ、でも、この店の営業が終わる頃には風呂屋も閉まっていますね。だからもっと向こうの、ちょっと遠いけど歩ける距離ではあるところにもっと遅くまでやってるところあって、でもそこは火曜日休みだから今日とかは(早口)」といった具合に、話のとっかかりになりました。

新しいiPhoneもM1グランプリ搭載のMacBook Airもデュアルキーボードもノイズキャンセリングイヤフォンも昇降ディスクもアーロンチェアもブラーバも食洗機も欲しいけれど、まあ現実的には数百円の風呂桶一つ、買って良かったと噛み締めて、安上がりなものです。

忘録(忘れるための記録)

大阪市の廃止を巡る住民投票が終わった。結果は前回同様僅差で否決。政治・行政は心底どうでもいいが、賛否を見事半々とする政策と、それに直接投票するという点において、やはり何かと考えさせられるものがあった(かつて「笑っていいとも」内のコーナーで「1/100アンケート」なるものがあったが、「1/2アンケート」も難しいのではないか)。近年になって興味を持つようになった「盆踊り」が、区政に直結することもあったかもしれない。と言っても大阪市には在勤仮在住しているだけで、投票権はないのだが。

僕は反対派ということになるが、正確に言えば単に賛成しないだけのこと。ぱっと出てきた案を、殊更に反対する必要もないが、その案は別に必要ないので可決されても困る。なので、そも賛否の派に別れなければならない二者対立構造からして腑に落ちないことがあった(この伝で言えば「賛成派」だけが投票し、既定投票率以上で可決、というスタイルが自然に思える)。言うまでもないことだが、反対派が停滞を望むわけではない。

(新構想は、子供が「新しい机じゃないと勉強できない」と駄々を捏ねるに似る。勉強をするのは机ではない。なので却下するわけだが、しばしば新しい机が勉強の加速材料にはなり得る。新構想を「内実を伴わない詐欺」と批判する人もいたが、詐欺はしばしば経済を(かき)回す。がいづれにせよ、それは望ましい形ではない)

「ただの案(もしそれが正しい案なら、全国の主張都市も間違っていることになる)」が、それだけの支持を得たのだから、僅差の結果は実質反対側の負け、にも見える。或いは、首長と議席を占め、この頃中でメディア露出機会も多い中、政党を離れてピンポイントで政策が否決された点においては惨敗とも言えるのか……。ともあれ何かと禍根を残す結果だし、そも投票とは何か、と思う。

さて、ここで無知を晒してまで書き留めておきたいのは、結果反対派であったにも関わらず、同じ反対派の意見には同調しかねる点が多数あったことだ。普段であれば、言説を補強してくれる頼もしい感すらあるのだが。

多くの文化系左派(というのは僕が昔勝手につくった造語で定義あやふやですが)は今回、反対側に回った。例によって立憲民主党や共産党ほかも反対に回った。一方で自民党も反対に回った。この地方においては、主に国政で為されている左右対立とは異なる軸になる(そも現代において左右という分類が成り立たないとも言えるだろうけれど)。現状維持という「保守」を、日頃保守的な政党を批判する各所が唱えることになった。無論、全ては是々非々だからそれはいい。けれど、普段と違う文法を活用することになる。そこに幾つかの苦しさが見受けられた。

前置きはこれくらいにして、以下は箇条書き。普段頼りにしている人々に盾突く形になるため、愚かしい意見となるかもしれない。まあ、愚かなのでそれは仕方ない。

二重行政は既にない

そも二重行政は件の会が設定した問題なので、取り合う必要がないのだが、仮にその設定に沿うとして「既に二重行政はない」と反対側が反論する根拠は、最近の府市協調による。実際に言質を取る形で、知事の「二重行政はない」という過去発言を取り上げる反対派がいたように思う。あれ、ならば、それを一時的な人事でなく制度に落とし込むこと、は肯定的な手段になってしまうのではないか。この点の理屈がよくわからなかった。

また、コストの面において、どちらがより安上がりか、という議論を両者ともしていた。実際にどちらが安上がりかはわからないし、恐らく真には誰にもわからない信仰の問題になる。しかし、府と市がそれぞれ行政を行うことによる冗長性の確保のためには、むしろコストかかってなんぼじゃい、二重こそがイカす、という主張を、反対派はせねばならなかったのではないか。まあ、それしてたら負けたと思うけど。

再住民投票自体が有り得ない。二度漬け禁止

もしこれが例えば(今回反対派の多くが賛成するであろう)「選択的夫婦別姓制度」などであれば、一度僅差で否決されても、五年の世論の変化を経て、再度チャレンジしたいところだろう。そして保守派から「一度否決されたはず、再び持ち出すのは卑怯」と言われ、腸が煮え繰り返る思いを味わうことだろう。

それどころか、前回は僅差ほどには多くの人がそれを待望し、且つ、それを推進する政党が引き続き選挙でも支持されて議会を掌握し、所定の手続きを経ているなら、再び住民投票を行うこと自体はむしろ健全な民主主義だとさえ言える……のではないかしら。明らかに再議論が的外れなら、それ以前の制度が跳ねるべきで。あまりに多くの人がこれを言うので、自信ないけど。

もう二度と戻れない

もしこれが例えば(今回反対派の多くが賛成するであろう)選択的夫婦別姓制度などであれば、反対派は「旧き良き家族制度に二度と戻れない」と主張するだろうし、それを反対派は鼻で笑うところだろう。

例え明らかに「良さそう」なことであっても「二度と戻れない」という脅しは、わりと通用しかねない。それを、言うべきなのだろうか。

(適例かわからないが、離婚を検討する人に対し「でも離婚に踏み切ると、二度と在りし日には戻れない」という揺さぶりをかける、手法があるかもしれない。それは、適切なのか)

それに、二度と戻れない、のなら、そっちの方が間違いではないのか。その法律がない、というなら作ればいい。仮に可決されたとして将来「くっ! 特別区は間違いだったと今や誰もが認める事実だが、もう二度とは戻れないので後は座して死を待つしか無い……!」みたいなことになるのだろうか。

勿論、気軽に社会実験されても困るので「一回やってみたらいいやん!」は論外だ。この精神の賛成派は多いと思われるので、不可逆性をタテにする、という気持ち自体はわかるのだが。二度と戻らないのは、そこに費やされた時間。

(その昔、区政を題材にしたシミュレーションゲームがあって、リアルにも「条例の制定」が再現されていた。といっても、予め容易された「条例の候補」を選んで、区議にかけ、賛否を問うだけのもの。しかし、この賛否の根拠が特に作り込まれていないため、否決されても何度も議論にかければ(連打すれば)やがては可決された。ので、まだ所詮はリアリティに欠けるおにぎやかしのおまけ機能の類……といったことを思い出した。アートディングの「トキオ 〜東京都第24区〜」。更に余談だが、2ちゃんねる初期の画面に掲示されていた「出された御飯は残さず食べる」「転んでも泣かない」というフレーズは西村のオリジナルではなく、このゲームの条例候補が元ネタになっている、ことは何故かあまり話題にされない)

このコロナ禍にやることではない

この意見も多かった。が、文化系こそが「(福祉や医療や教育や、或いは各種災害からの復興のため)文化・芸術どころではない」と、この日本の通時において、言われ続けていたのではないか。或る程度は物事の独立性を認めなければならない。

住民投票自体が間違いかもしれない

これは反対派の意見というより、こんな重要なことを一般市民が住民投票で決めてしまうこと自体が間違っている、というもの。しかし散見する限りは(必然)反対派の意見でもあった。

しかし反対派の多くは、国政選挙の度に「選挙に行こう」(国政の保守派は投票率が低くても利する? ので、これを呼びかける派と反対派はだいたい一致する印象)と積極的に呼びかけていた層にも思える。若い人にも(カジュアルさを保ったまま)政治参加を促そうとしていた人たちだ。

今回住民投票なのは地方自治法によるが、もし他の政策同様であれば、代議制によって決められる。ということは、住民投票でなければ、既に大阪市廃止は可決されていることになる。幸い、今回は政党は支持されつつも、政策は否決された。やった甲斐があったろうし、できることなら国政を含め、全てそうしていただきたいくらい。

折角、政策に直接投票できるのに、これを忌避しては、結局のところ、政治自体が不可能だ。或いは実際に、不可能なんだろうと思う。

また、「二度やるのか」にも関係するが、投票行為自体が莫大な費用がかかるからアカンという意見もあった。それもわかるけれど、それを言いだしたら民主主義が成り立たない気がする。

(代議でも直接でもなく、専門家によって正しい結論を出して欲しい、という意見もあったけれど、まあそれは、それこそは普段から僕も思うところだけれど、その専門家の動員は、やはり代議によって為される、ので意味がない。客観的に正しいと判断される専門家もいない)

(その選定すら専門家の熟議によって行うとすれば、そもそも政治家や選挙という概念もなくなる。それ、ができるなら、良いと思うのだけれど、古今東西そういった例は寡聞にして聞かない(真の正解が一つだけで、時間をかければそこに辿り着く、ので思想の対立は本質的にはない、という世界かしら)。ので、理論上の理想論につき、レイヤーの違う話になる。面白そうではあるけれど)

大阪市を守ろう

しかし、その大阪市にせよ旧26区の現24区にせよ、忌むべき役人どもがかつて引いた線なので、特別区に対して殊更に守るべきものなのかはわからない。新世界アーツパーク事業に始まり、くだんの会が台頭する以前から、文化系の人々は「大阪市」なるものに苦渋を飲まされてきた、と聞いている。いづれにせよ行政とは、そもそも、ロクでもない。

それならば、まだしも、四区に縮小されて、選挙によって選ばれた区長の方が、話し合いはしやすそう……かはわからないが(相当は特別区でなく大阪府となり、よりややこしくなるんかな)。相対的に大阪市が「守るべきもの」になってしまったのはへんてこりんにも思える。無論、この投票の本丸は「大阪市派」でなく単に「大阪市解体反対派」ではあるのだけれど、起きやすい錯誤ではある(……と、自分にも言い聞かせねばならなかった)。

賛成派はマッチョで怖い

くだんの会とその支持者は、それはまさしくそうなんだけど、反対派の中にも多く「カジノなどの改革開放政策やらで、中国人や韓国人だらけになったら困る」という排外主義的な意見とか「××区と一緒にされるのは嫌だ」という地域差別な意見もあって、怖い。今回、反対多数になったのは、そういうナチュラルな差別感覚にも下支えされているので、そんならいっそ、という気持ちもある。

この辺が特に、日頃の保守的な価値観との転倒があった。まあ、二択なれば、完全に怖い怖くないが綺麗に別れるはずもない。この点も悩ましいところ。この点に関する反対派の葛藤も見受けられなかった。本当に怖いのは、是々非々でなく党派性そのものである。

(本件は「くだんの会への信任投票ではない」ので、それ故に反対派が可決されたわけであるが、反対派はかえって「政策はくだんの会の野望である」と結びつけた不信任を呼びかけた。この辺も複雑)

結論

結局のところ、政治やら行政なんてどうでもいいし、根底から何かが間違っているし、余計な分断を生むなど有害なのだから、本件に限らず、考えるだけ無駄である。そんなくだらないことは、やりたいやつが(幸い、沢山いるらしい)勝手にやればよい。ふつうの人間ができること、大切なこと、なすべきことは、ほかにも多数ある。

政治も大切、といっていた文化系左派も、結局のところ、間近な問題にあっては、民主主義そのものを毀損する手法に陥っていた。お互い、政治に向いていない。

顧みるに、そもそも投票による決議とは、集合知による最前の選択手段ではなく、その決定を裏打ちする、ただの責任の分散方法(或いは逃れ)に過ぎない。悪いことが起きないための選択ではなく、悪いことが起きた時に「でもこれが多くの人の選択でしたでしょ?」と言うための。たかがそんなものに加担するだけ無駄である。

この山本、そも政治に対する態度は一貫しており(これ言ったら滅茶ひかれるけど)これまで一度たりとも投票に行ったことがないし、今後行くこともない。気の迷いでこのたびの住民投票に心を割いてしまったが、結論としてこの思いをより強くする、きょうのわんこでした。

垂直の所作

電話をする時は普通、顔に沿うようにして受話器を持つ。イヤフォン部は耳に、マイク部は口元に、それぞれ当てられる。そうなるよう、受話器は湾曲した形をしている。

でも、電話のアイコンたるそうした受話器は、固定電話に限る。現在主流のスマートフォンは、ただの小さな板状。とはいえ、同じように耳に当て、上手く口元の音を拾う。まあこれも古いスタイルか。街中ではみんなもう手ぶらで喋っている。通話の性質上、スピーカーは耳元で囁くのみだが、マイクの方は離れても声を上手く拾えるみたいで、端から見ると本当に独り言のように見える。

さて先日、中華人民共和国広東省広州市天河区東圃へ宿泊した時のこと。うっかり予約時に宿泊日を間違えたため、ホテルのフロントと長々遣り取りすることとなった。といっても、僕は中国語を喋れないので、端でそれを眺めるばかり。

フロントの方がスマートフォンで何処かに問い合わせている。その所作を見て「ふむ」と思った。これは……この人だけの癖なのか。しかしその後、同じ所作を繰り返し見た。日本でも、若い人はそうするんだっけ。いや、中国の? でも上海や青島では見なかった気がする。華南方面特有の、か?

別に大したことではないけれど。その所作とは、通話の際、スマートフォンを、前述の通り顔に当てるのでなく、顔から垂直になるよう、真っ直ぐ横にして、口元に当てる、こと。写真でもあれば話は早いが無い。音声もスピーカーになってて、耳に当てない。マイクのみ当てる。口から伸びるよう真っ直ぐもって。

この所作が、なんか良いな、と思いました。理由ないけど。何となく、中国っぽいような。気のせいか。その後、逆パターンも見た。美術館のスタッフが、今度は耳に当てる。その時も、スピーカー部を耳にあて、それを身体から垂直になるよう構える。必然性がよくわからない。これだと、口元からマイクが余計に離れる。合理的でない。自然な所作でなく、彼らも「良い」と思っているから、そうしているのだろうか。

次はこちらの写真をご覧ください。所は越秀区北京路にある大仏古寺。観光名所でもありますが、お寺なので先祖を祀る日常の場でもあります。

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この線香の構え方、もなんか良い感じですね。垂直の所作。日本でもこうでしたっけ。

さて、次は広場舞。日本の盆踊りに共通するところ多しですが、違いとして、日本は輪踊り、中国は正面踊り(がそれぞれ主流)という点があります。

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舞台発表でなく日常的な総踊りであるなら、振付やお互いの動きを見れる「輪踊り」の方が優れている、と思う。何故、中国人は輪で踊らないのだろう。最初は、人数と場所か、と思った。如何な中国でも、街中で大人数でやるからにはそんなに広がれない。参加人数を多くするには必然、整然と並ぶことになる、と。

しかし、踊るうちに、ここにも垂直の所作が関係しているかもしれない、と思い至った。

広場舞は種類多数のため一概には言えないが、正面ばかりでなく、向きを変える。この「向き変更」は、普通に振付の一端として行われたり、間奏部分にだけやってきたり、という印象だが、曲によっては、正面の踊りと同じように行われる。つまり、開始時点が正面なだけで、等間隔で向き変更が行われる。面白いのは、多くは、例えば90度づつ前、左、後、右……へと変わるのだが、振付によっては270度づつ変わり、動きは左回りながら向きは前、右、後、左……と右回りなるようなものもある。

この等間隔系振付を踊ると、広場舞は、正面踊りというわけでなく「四面踊り」と看做せる(部分もある)。強引に故事つければ、日本は和を尊ぶ輪踊り、中国は麻雀にも通じる四面踊り、という次第。これも垂直の所作の一種ではないか。

(舞台演出などで)何かしら動き、振る舞いを考える時、そこを意識すると、簡単なのにちょっと良い動き、が出来るかもしれませんね。

(表現の)検閲・規制・不自由・自粛

「(表現の)検閲・規制・不自由・自粛などと大仰な題をもって巷間で流行りの話題に「このワシに言わせれば」式のご尤もな提言を開陳するつもりであろうが、確かに民主的に開かれた議論の場ということであれば一市民として意見を発することそれ自体は止めまいけれど、今や自宅の戸に戯言をワープロ打ちしただけの普通紙を貼り出すだけで芸術作品でござい個展開催中でござると称するほどに落ちぶれた今、そこに検閲も規制も不自由も自粛も観客もありはしまいし、まして税金は専ら納める側、一端のアーティストを気取って大勢を語るとなれば片腹どころか両腹痛い羽目に陥るよ」

……アイヤ仰る通り。それは確かにとても大切な問題で、誰にとっても考えるべき問題でしょうけれど、それは飽くまで一市民の意見として。「自称アーティスト」としては、特に有用な知見などあるはずもない。

……と思っていたのだけど、あれ、そういえば……僕も、何度か、そういったことがあったぞ、と思い出し、以下に控える。知見ではなく、事実の備忘として。まあ、思い出話の、自分語り。

机上文藝 (1998年)

高校生の頃、演劇部であったが、文芸部でもあった。文芸部は入学時、入れ違いで部員は既におらず、概念としてのみ残っていて、そこに一人、入部した(顧問の先生はいた)。

高校一年生の、はじめての、秋の文化祭。文芸部といえば、部誌を作って展示するのが一般的だった。しかし、文化祭で腰を据えて冊子など誰も見まい。そう思い、一教室をまるまる借りて、文芸を「美術部のように展示する」という方法を考えた。

当時一クラスにつき生徒は四十人。教室には四十脚の机があった。それを十列かける四行、前戸から後戸へ一方向の動線で通路を形成するように並べる。その机ひとつひとつにB4サイズの紙を貼る。この一枚ごとに、何やら文章が書かれている。それは詩であったり、短い又は続き物の物語であったり、誰かの戯言であったり。または、その一連に挟まれる、挨拶や前説であったり、タイトルであったり、部員募集のCMであったり。

何とか文化祭前日に四十枚の設営を終え、翌日。登校して再び展示会場に行くと、数枚が机の上から無くなっていた。その時は、あれ? と思っただけで、それほど驚かなかった気がする。風で飛ばされたか。作品は、原本を自宅のワープロ専用機から感熱紙で出力し、それを学校でコピーし、展示していた。原本は別途保管しているので再展示は容易だ。顧問の先生に該当作品の再コピーをお願いしに職員室へ行った。

「実は……」と先生が説明した。昨日の放課後、教職員らによる展示物の一斉巡回があった。そこで「不適当」と判断された作品が取り外されたという次第だ。

確かに巡回がある、という話は聞いていたけれど、まさか自分の作品がそれに引っかかって、知らぬうちに取り下げられるとは思わなかった。無論、抗議した。が、結果としては再展示はかなわなかった。これが僕の人生最初の展示であり(結構わりとそのままの意味で)くらった検閲でもあった。

覚えているのは次の二作品。まず一つ目。登場人物の名前「山本孝」が、同学年の一人の男子と同じだった。山本孝なるキャラクターは全く悪いものではなかったが、ただ名前が重複するだけで何らかの誤解を生む恐れがある、とのことだった。これについては「孝」部分を消してただの「山本」として再展示した記憶もある(名前を変えたくはなかった)。

もう一つ。これは次のようなしょうもない短編だった。悪の組織に潜入している腕利きの捜査官、しかしその正体が露見し捕まってしまう。悪の組織の首領に突き出される捜査官。大ピンチ! 「フフフ、残念アルな。お前の命はここでお仕舞いアル!」ひと昔前の中国マフィア風の首領。「冥土の土産に教えてやるアル。聞くがヨロシ。この組織の真の目的とは……あれ、もう死んでるのことよ!」処刑される前に召される捜査官。本当に「〜アルよ」と話す謎の中国人がいるなんて……冥土の土産話はそれで十分だった……というもの。つまり役割語を話す奴が現実にいるなんて、というオチである。ということで、中国人を架空のステロタイプで描くことが差別的である(と捉えられかねない)、というものだった。これについては「僕も中国人ですが」と反論した記憶がある。しかし、これも再展示は叶わずお蔵入りとなった(その後、展示を観に来た他校の友人に渡し、後年までその友人の学校の部室で展示されることになった、と知ったのも後の話)。

また当初、教室の黒板に「よろしければ感想など書いてください」と書いて促した。これも(展示会場に常駐する係員などいないので)何が書かれるかわからない、とのことで取りやめを指示された。しかし、文化祭が終わって展示を撤去しに戻ると、黒板いっぱいに多数の感想が書かれていて呆然とした。これが、自身の作品に不特定の観客から感想が届けられた最初の体験でもあった。

映像文藝 (2000年)

二年目も机上文藝を開催したが、特に何もなかったように思う。三年目は卒業記念ということで、机上文藝の他、隣にもう一教室借り「文藝博覧会」と称した展示を行った。既にフォーマットが定まり切った机上文藝だけでなく、もっと自由な形での文藝作品も展示したかった。しかし机上文藝だけでも精一杯だったので、こちらは結果的にはあまり作品を用意できなかった。その中でメインとなったのは「映像文藝」である。自宅から持ち運んだテレビモニターで映像作品を上映した(当時はプロジェクターなど想定外)。

映像文藝とは……特に音声もなく、全体でもほんの数分程度。次のような作り。1)カメラが駅改札から構内に入り、エレベータを下る。丁度電車がやって来る。それに乗車すると、中で一人の乗客が「異端者」と極太字で書かれたパネルを顔の前に掲げて座っている。フェードアウト。以上、というもの。2)カメラが駅前の広場を見下ろしている。ふと銀行の入口に視線を向けると、中から「犯罪者」と極太字で書かれたパネルを顔の前に掲げた人が出てくる。フェードアウト。以上。あまり意味がない。ともあれ、何でも無い映像に、太字の「言葉」が出てくる。まあシュールな、っぽい雰囲気だけの作品。最低限の「仕込み」、何かやった感を出すために、スタジオ撮影ではなく、町中を舞台にはしている。

(しかし、後に大学の推薦入試に提出した作品の中で、戯曲や他の文藝作品よりこの映像文藝に評価が集中したので、何が幸いするかわからない)

その一連に一つ。次のようなシーケンスがあった。3)カメラはまず校舎の正面玄関を映す。そのまま進み、構内に入って左手を曲がり「校長室」の表示がある部屋へと入る。その部屋には校長と思しき男がその机に座り「失言者」と極太字で書かれたパネルを顔の前に掲げている。

さて、これには一応、意味がある。文化祭に先立って開催された体育祭。紅白接戦、白熱の決着後、終礼にて赴任間もない校長が次のような話をした。「勝った組にはその努力や意気込みが感じられました。負けた組には、それなりの理由があったと思います」わぁ! と、負けた組の女子生徒が泣いた。この謎の失言はその後それなりに問題となり、反骨の社会科教師なども授業中に言及して校長を非難したりした。

僕としてはこの事件自体に別にそれほど感じるところはなかったのだが、映像文藝を撮り進める内に閃いた。校長室を訪ね「映像作品に協力して欲しい、この札を顔の前に掲げたまま、数分そのまま待っていてくれ」とお願いした。その札に書かれた言葉は校長に見せないまま。

斯くして二年振りに巡回視察に引っかかることになった。校長案件だったためか、この件は教頭と話し合うことになった。教頭はわりあい物腰柔らかく「外部から見に来た人には事情がわからないから、誤解を生む可能性がある」と説得した。高校一年時、不意に食らった検閲と違い、知恵をつけて、それこそ表現の自由を掲げて結構抵抗した覚えもあるが、まあ最後には折れた。その部分を削除して上映することになった。

IYY (1999年)

高校二年生の頃「国際青年年記念堺連絡会」なる堺市の海外研修事業に参加した。かろうじて90年代の中国、それも四川省の少数民族(彝族)居住区などへ行くことができ、今でも感謝している。

が、まあその後、色々あった。

帰国後も、報告誌の作成や報告会など活動が残っている。まず、この報告誌の文案で悶着があった。現地では、我々未成年者を含めて毎夜宴席で強いお酒をガンガン飲んでいたのだが、その様子を匂わせる記述がまず問題となった。他諸々、文章は無難で面白みのない「報告文」へと修正されていった。これについても勿論、抵抗した。が、相手はお役所連中、埒があかぬとして一旦、折れた。ふりをした。

次いで報告会。この無難な文章を読み上げる予定だったが、これをいざ壇上で破棄。別途用意した、事務局による表現の不自由を訴える裏原稿を読み上げた。このサプライズ演出によって事務局との関係は完全に悪化し、同じく中国研修旅行を共にした新しい友人、十数人も一気に失った。

この話にはまだ続きがあり、翌年、当初の報告会用の文案は別途、国際なんとか作文の懸賞に応募し、入選して賞金五千円をもらった(未成年飲酒を匂わせる描写もそのまま)。

更にその翌年、当年度の参加者による海外研修報告会の案内が一応僕にも届けられた。そこには「OBの皆様もその後、ここでの経験を活かした成果があれば、是非ご登壇お願いします」と例年、形だけ添えられる一文があった。僕はそれを受けて、かつて事務局では没とされた文案が別の賞では入選した経緯を皆さんに報告したい、と申し出た。

勿論、それは却下された。「形だけは様々な個々人の活動を尊重すると言いながら、結局のところ無難なことしか認めない」本件には世の不条理が込められている、とプンプン怒った僕は、諸々の経緯を詳述した怪文書を作成し、その報告会の中途に奇装で突如乱入、怪文書をまき、壇上に向けてクラッカーを鳴らした。たちどころに顔見知りの職員たちに取り押さえられ、外へ連行された(その際に投げかけられた「山本君、君は疲れているんだ」というセリフが印象的で、このワンシーンは後に劇団乾杯公演「リ」で再現している)。

尚、この研修事業は現在も続いており、今でも報告会の案内が来ている。時折、出席している。勿論、現行の関係者以外でそのような人間は、僕だけだ。

運動展 (2006年)

今は無き大阪府立現代美術センターの事業で「吉原治良賞記念アート・プロジェクト」という公募があった。最早全てが忘れ去られてしまったが、確かもともと大阪で有名な現代美術家の名前を冠した「吉原治良賞」という美術の公募賞があり、それが何かテコ入れされて、単なる作品ではなく「アートプロジェクト」が対象となった。

アートプロジェクトの性質上、まず書類審査で5組が入選し、その後一定の活動期間を経て再審査し大賞が決まる、というシステムだった。書類に通って入選しただけだが、おかげさまで半年程、活動することができた。これが唯一の公的な援助を受けての活動となる(制作費予算も10万円くらいあった気がするが、一体何に僕が10万円も使ったかは忘れた)。

さて、その入選展となる「運動展」にて。確か20作品くらい展示したのだが、そのうちの一つが計画段階で「これはちょっと……」とセンター側に止められた。それは「お金を盗らないでください」という作品だった。一万円札を、何の囲いもない場所へ、そのまま無防備に展示し「お金を盗らないでください」とキャプションをつける。果たして、この一万円札は、期間中不特定多数の来場者に耐えて最終日まで残るか。或は(やっぱり)途中で盗られてしまうのか。

もしお金を盗られた場合は、センター側から警察へ被害届を提出していただき、もし係員が窃盗の現行犯を目撃したら、容赦なく警察に突き出すという指示も含まれている。指示といっても、まあ、普通作品が盗難にあったらそうしてもらうことになるだろうから、特に無理なお願いというわけではないはずだ(どうぞお持ち帰りください、とわざと誘発する作品ではない。文字通り、お金を盗らないでください、だ)。

しかし、展覧会の来場者を、参加者ではなく場合によっては犯罪者として巻き込むことが密かに想定されたこの作品は、まあ「やめてくれ」と言われた。具体的にどういう風に言われたのかは忘れた。が、これについては、僕自身もあんまりおもしろくねえな、と思っていたので、わりとあっさり引き下がった、ような気がする。

これについては準備中に、同じく入選者であった(いまトリエンナーレにも出品している)藤井さんから「あれは戦えば良かったのにー」と言われた。なるほど確かに、と思った(今思えば、審査中である中で、関係者に悪印象を与えないようにする、という打算もあったかもしれない。そのわりには、別の件でも多いに揉めることになるのだが)。

戦っては無いけど、後日談としては、翌年もあった公募に、これの焼き直しを応募した。僕個人の貯金を全て硬貨に両替して展示する、というもの。特に盗らないでください等と強調しないが、展示期間後には総額が変わっているのではないか、というもの。そもそも「お金を盗らないでください」の前には「お金を入れてください」という作品があった。これは貯金箱を展示して「お金を入れてください」と添えたものである。すると、何故か展示期間終了後に、ホントにお金が入っている。特に理由がなくとも、お金というものは増減する性質を持っている、お金シリーズの集大成であった。

これは一次審査通って(前回入選者だから話くらいは聞いてやろう枠)、二次審査も比較的好感触であったが(講評では大賞に次いで言及された)、チェコの美術家カリン・ピサリコヴァにはかなわなかった(そりゃそうだ)。

さよならNPO(ニッポン) (2010年)

さて最後に、ここまで書いて思い出した、別枠を一例。検閲を回避し、そして偉大な主催者側の温情と寛容さによって展示を実現した例。

これは話せば長いのだが……。かつて(今も存在してるか知らないが)アーツアポリアというアートNPOがあり、若手アーティストを対象とした研修と展覧会の公募があった。で、それに応募した(昔はなんやかんやと応募してたのです)。「なにわーとスクールん」という、センスの塊みたいなタイトルの事業だった(こういう「若手相手だから子供じみた名前でいい」というのは本当に嫌ですね。アートなんだから、ともあれ格好はつけようぜ)。

これも一応審査ありなんだけど、特に落選した人はいなかったのではないか。作品自体は研修を経て作るので、何やるかは参加時点では決めていなかった。

さて、その参加に関して書類提出があったのだけれど、その一枚に「誓約書」があった。仔細は忘れたが「まあ、色々あるだろうけれど、最終的にはこちらの指示に従ってね、それを誓ってね」という内容。そういうのが一般的なのかは知らないけど、これはアカンやろう、と思った。他の若手アーティストらはぽいぽい阿呆みたいに誓約していたが、僕は別途話し合いをもってこれを提出しなかった。

「何か意見の相違が発生するのであれば、話し合えばいいし、主催がそちらである以上、無茶が通るわけではない。事前にアーティストを誓約書という形で縛るのは問題でしょう」

「それもそうですね。わかりました」と言われたかは忘れたが、僕が誓約書を提出しないこと、はあっさり認められた。何せ相手はアートNPO、内心と実務はともかく、理念を掲げれば向こうは否定できない。

しかしまあ、この時点では、僕も飽くまで理念的な話のつもりであり、後にそれが功を奏すとは思っていなかった(向こうもそう思っていなかったから、それをあっさり認めたのであろうが)。

この参加した事業とは関係なく、そのアーツアポリアが別途で開催したシンポジウムがあった。殊勝にも関係事業へマメに足を運ぶ山本であった(そういうことをするのも参加アーティストの中で僕だけ)。そこで入場料誤徴収事件があった。

予めチラシに書かれていた入場料を支払うと、それだけでは足りない、と受付で問答になった。確か第一部と第二部の構成になっていて、どちらかどちらもで入場料が異なる。ややわかりにくいが、チラシにはそれぞれの価格が明記されている。両方参加の場合は資料代がそれぞれ必要だが、入場料は一定(確かそんな感じだった)。ところが、この入場料をそれぞれ取っているので、倍近い料金を徴収されることになる。

僕は開演直前、最後の入場者だった。既にこの体系で多くの人から入場料が徴収されている。なので、この時、僕の訴えは飽くまで「それならチラシの表記がおかしいでしょう」ということだった。問答している時に、アーツアポリアの職員が現れた。そこで僕が訴えると「え、それであってますよ」つまりチラシの表記通りで良かった。受付が間違っていた。入場料すら事前に共有できていなかった事務局が諸悪だが、とはいえチラシの表記があるにもかかわらず、上への確認を渋ってやり過ごそうとしたこの受付は、現在鳥取で大活躍されている蛇谷さんで、なので僕は今でも蛇谷さんとは仲が悪い。

この事業は行政的には「生涯学習」の枠になっていた。その中、受付はおろか、たくさんの参加者も、チラシの表記があるにも関わらず、疑いなく倍近い参加費を払っている。それに気付いた僕の訴えをもっても、検証される体制もない。これでは「学習」どころか、その真逆をいく馬鹿の集団養成所ではないか(ここで前述の「お金を入れてください」も想起してね)。例によってプンプン怒りました。

なので、話を戻して、ここで制作するものは、そのアートNPO内でアートNPOを厳しく批判する、という内容に決めた。

その過程で、この誤徴収事件に関する顛末を厳しく問答しているうちに、一通の内容証明が届いた。アーツアポリアの弁護士からだった。誓約書でアーティストの行動を縛れないので、法的な脅しによって制するハラであった。

展覧会の主催者から参加アーティストへ内容証明を送るケースは結構稀ではないでしょうか。当時運営と折衝にあたったアーツアポリアの理事は中西美穂氏で、現在アーツカウンシル大阪の統括責任者であることは特筆しておこう。

と、色々あったけれど、展示はまあ問題無く、こちらが作ったものは全て規制なく展示された。アーツアポリアは(あの手この手を裏で使ったけど)最終的には表現の自由を守ります。アートNPOですもの!

雑感

この時点での雑感。以上が、今話題の一連と少しでも何か関係性を見出せるかは疑問だけれど。まあ色々ありますね。

表現の自由が問題になる時、それは公権力による介入があった時だけど、逆に言えば「表現の自由」それ単体が問題とされることは難しく、ややこしい。今回、話題のトリエンナーレの件でいえば、バシーンと各種の発言や「中止」という実際があったけれど、多くの場合それを侵害するものがあるとしたら、それは既に行われた後、で気付くのは難しい。

まあ、実際のところ、表現は自由なのか。登場した固有名詞が実在と重複、ってのは、この中でも極めて些細な話だけど。

あと「うちらは表現の自由を守ります。うちら自身を批判? それも守ります!」という表現の自由も、なんか白々しくないかしら、とも思います。泡沫候補の政見が、本来の放送コードではあり得ない感じで、全国に放送される。その時の「ふうむ」感、というのがあるでしょう。いや大切なことやで感。アンデパンダン展の「それはいいことですね」からの「ふむー。色んな作品があっていいよね」感。

ピクニックメンバーのガリちゃん

それは昨年の、或る夏の日のことでした。


築40年、14階建400戸のマンション「S・堺」。その住民自治会が例年開催するという小さな盆踊りへお邪魔した。このマンションは、僕が生まれてから中学二年生まで過ごした家のご近所にあり、この地域(小学校の校区)で盆踊りはもうここしか残っていない。

盆踊りがあるのは知らなかったけれど、このマンションとは何かと縁が深かった。毎週土曜、この一室で開かれていた習字教室に通っていたし、同級生も多くこのマンションに住んでいた。水泳教室で知り合った年下のN君もここの住人だった。「お父さんって仕事何してるん?」「色んなところのお祭りで屋台を出している」「へえ?」……世の中には「テキ屋」という職業があり、こうして普通のマンションの一室に居を構え家族を養っていることを知った。スーパーファミコン発売直後、その実機をはじめて目にしたのはここの最上階に住むH君の部屋だった。そこで遊ばせてもらったわけではなく、別の用事でお邪魔した時、帰り際にリビングのテレビ台の中に恭しく鎮座しているのを目撃した。あの高級感あふれる灰色。

…………と、こんな具合で取り留めなく色んなことを思い出すが、一番は何より「ピクニックメンバー」のことだ。ピクニックメンバーの一人、Aさんはこのマンションの三階に住んでいた……。以上、あまり意味のない無理矢理な導入。ピクニックメンバー、今となってはやや奇妙な響きを持つグループ名、については以前から文章に残しておきたかったので、ただの切っ掛け。これは他人向けの作文でなく、単に昔のことを忘れないうちに控えただけの、私的な作文となる。最も、別に忘れる心配は無さそう。記憶力が老人性なので、最近のことはすぐ忘れるけれど、昔のことほどよく覚えていて何時までたっても忘れない。というか、生活パターンに変化がないので、単に何時まで経っても記憶が上書き更新されないだけというべきか。

ともあれ。それは僕が人生で一番、無邪気に楽しかった頃のこと。

入学してから初めてのクラス替えがあったばかりの、小学三年生時の、と或る日曜日の朝。僕はまだ、部屋で寝ていたと思う。家の前に数人の同級生が自転車でやってきてインターホンを鳴らし「遊びに行こう」と誘って来た。至ってごく普通の光景だが、そういうことは今までなかった。既に親しい特定の友人が、遊びに誘ってくることは勿論あったけれど、そこにいたのは未だ親しいわけではなかった、同じクラスなだけの子たち。男子も女子もいる。

ハテ一体どういうことだろう、と思いつつ、急いで身支度し、みんなで遊びに行った。詳しくは忘れたけど、大浜体育館に遊びに行った。これまた何の変哲もないことようだけど、当時の僕にとっては新鮮だった。それ以前の友達との過ごし方といえば、近所の公園で遊ぶ、又は友達の家でファミコンをする、つまりごく身の回りでのこと。というか、友達と遊ぶこと自体それほど多くなかったかもしれない。放課後は、単に家で一人ファミコンをする、のが大半。大浜体育館という、自分とは一見無関係な「施設」へ行って、探索したり、ロビーでたむろったり、売店でお菓子を買ったり、自動販売機でジュースを買ったり(当時でも既に珍しい、瓶ジュースの販売機だった)、食堂でうどんを食べたり、観覧席から知らない人達のバレー試合を応援したり、そうして何人もの友達と共に時間を過ごす、というのは初めてだった。また、大浜体育館のある大浜公園はごく近所ではあったが、公園全体が校区外(懐かしい概念)の扱いで、本当は子供たちだけでは行ってはならないことになっていた。僕にとっては「遠出」でもあった。

後に聞いたところ、この日はK君が「なんしか、とにかく、大人数で遊ぼう」というコンセプトのもと、事前に計画して、予めクラスの人達を誘っていたところ、当日になってそれほど人が集まらず、当初誘っていなかった僕の家にも来た、という話だった、らしい。

その後、同じように何人かで遠出をしていく内に、以下の五人が中心として固定メンバーとなっていった。

Aさん。くだんのS・堺の三階に住む。父親は公務員で姉が一人いる。成績は最上位、体育も得意、それでいて嫌味なく明るくておしゃれ、発想も豊かで実行力もある。背筋も綺麗な、典型的な優等生。控え目でありつつ、今から思えば影のリーダーだった。

Kくん。成績は悪かったが、長身で運動神経もそれなりによく、ハンサム。発起人でもあり一見リーダー風ではあったが、場当たり的で落ち着きの無い性格、仕切っていたというわけでもない。自分からおどけて笑いをとるタイプではないが、受け答えや行動にはいつもユーモアがあって、一緒にいると笑いが絶えなかった。

Tさん。成績は悪かったが明るく元気で愛嬌があった。流行に敏感で、玩具が好き。同じく女子のAさんとは幼馴染だったか。大人びて長身のAさんに比して小柄で子供っぽく(そりゃ子供だけれど)、対称的な二人だが仲の良いコンビだった。

Oくん。僕。Aさん程ではなかったが当時成績は良く、しかし体育は最下位で、一時Tさんからはガリ勉の「ガリちゃん」という渾名で呼ばれていた。当時はより生真面目な性格をしており、世間知らずで目立ちもせず愚鈍、自ら面白いことを言いたがるタイプではなかった。立ち位置としては、みんなの行動や発想に驚く、所謂ツッコミ役だったかもしれない。

Sくん。さても、これが変わった奴でした。成績は最下位で運動神経も鈍く、体格も小さめ。短髪にアロハシャツが似合いそうな、小学生にしてチンピラ風の風貌。その見た目だけでなく、まさしく「チンピラ小学生」としか形容しようがない人物だった。といっても(それほど)悪い意味ではなく、明るく社交的で、いつもおどけて、周囲とすぐ仲良くなることができる性格。家は熱心な天理教で父親は建築系の社長だったか裕福、姉はスケバンで、そのため年上の不良に知り合いが多く、出先でよく年上の不良たちに声をかけられていた。何というか、街、と一体化しており、近辺の地理に詳しく遠出に慣れ、商店の人達とよく知り合いになり、行きつけの肉屋ではコロッケを注文する時は自分で揚げていた。突然「今晩風呂に行こうぜ」と小学生にして銭湯に行くのを行楽とするようなセンスを持っていた(彼のおかげで、マンションに改装される一世代前の大浜潮湯に間に合った)。地域ごとの特色をよく理解し、愛好していた。弱きを助け(本人も喧嘩は弱い)義に厚い、かと思えば実際に他校の不良に絡まれた時は、率先して友達を見捨てて逃げたりもする人間味溢れる小物。そして前述の通り成績は最悪だったが、社会科だけはトップクラスだった。

以上の五人。今思い出しても、とてもバランスのとれた五人組だった。実際に遊びに行く時はこの五人組にプラスして何人か加わることもあったし、また男子三人だけで遊ぶことも多かった。が、このメンバーで計画して遠出することを「ピクニック」と呼んで計画的に継続し、この五人組のことを「ピクニックメンバー」と呼んでいた。自然に出来た通称だが、ちゃんと固有のグループ名として五人全員の了解があり、「誰某を正式なピクニックメンバーに加えるか否か」といった討論もあったように記憶している。五年生のクラス替えでメンバーが別れたりもしたが、ピクニックメンバーは常にこの五人で継続した。

浜寺公園(の中の交通遊園)、大泉緑地、臨海スポーツセンターでスケート、他には何処へ行ったっけ。振り返れば、それほどの回数でもなかったのか。定番の行き先は、ごく近場だがやはり大浜体育館。しかし、具体的に何したり、何遊んだりしたのかは忘れてしまった。当時、浜寺の交通遊園の有料アトラクションにはゴーカート以外にフライングスインガーがあった。カラフルなボックスに入ってブランコみたいに体全体で勢いをつけて回転するやつ。これをみんなで繰り返し乗って、かなりの回転数を記録し「浜寺公園史上、最多が出た」とシルバーセンターのアルバイト係員に言わしめ、素直にみんなで大喜びした。何処へ行った時でも、本当に楽しかった。

小学生最後と銘打ったピクニックは、みんなにお願いし、当時僕が好きだった隣の校区のCさんをゲストに迎えた。Cさんは府営団地の上階に住んでおり、当日の朝、僕とKとSの男子三人組で迎えにいった。「頼むから、僕の好意を伝えたり、ひやかしたりするのはよしてくれ」と予め懇願していたが、早速KとSは団地の上階から降りる際、僕とCさんを二人きりにするようにエレベーターを閉めて二人は階段を駆け下りた。気まずい雰囲気を誤魔化すべく「もー……あいつらー」と苦笑いしつつ、してやったりとする二人が駆け下りるのをエレベーターの窓から眺めていたが、次第に体力の無いSが引き離され、Kが途中階でエレベーターを停めて乗り込み、結局Sだけが悲鳴を上げながら一人ぼっちで階段を駆け下りることになった。エレベーターの中、三人で笑いあった。

それより以前、まだ初期の頃。四年生だったか、僕はピクニックメンバーのTさんが好きだった。告白を決意して(かの「あずきちゃん」より早熟)、当時天理教仲間の或る女子が好きだったSと結託して、その子をゲストに迎えつつ、二人密かに告白を目的としたピクニックがあった。大浜体育館で、グループ交際ならぬグループ告白と今となってはよくわからない発想。しかし、いざという時に小心者のSは日和ったため、皆の前で僕と喧嘩となる。事情を知らない周りは、突然どうしてん、となりつつ、その勢いで僕は一人告白を強行する。この様子は翌日に教室中に広まり、当時ヒットしたドラマ「東京ラブストーリー」の東京部分を僕の名前に替えたタイトルを冠し、決め台詞とともに、その後何年もの間、周囲に繰り返し演じられることになる。しかも結果フラれることとなるが、そこは小学生、気まずい雰囲気は長続きせず、ピクニックメンバーは以降長く継続するのだった。

最後のピクニックは中学二年生の時、僕が一学期の終わりに転校した、夏休みの一日。大浜公園で簡易なバーベキューをした。雨が降っていて、乙姫橋の下で、同じようなグループが何組かいた気がする。しかし一体誰がコンロなどバーベキューの準備をしたんだろう。多分、Aさんか。その手の煩わしいことを、なんてことなくこなしていた。その頃、既に久しぶりの集まりだったが、僕はこれからも続くと信じていた(引っ越し先もそれほど遠いわけではない)。でも、それが五人集まった最後となった。結果的に僕の送別会となったが、それが結果的にと考えていたのは僕だけかもしれない、と今書いていて気付いた。

いづれもピクニック、出先での思い出。導入部分の、マンション「S・堺」に結びつけたのはやはり強引かもしれない。しかし、ここでこそのピクニックメンバーの思い出があった。

それはピクニックではなく、確かクラス劇の練習や打ち合わせに、S・堺にあるAさんの家に集まっている時だった。誰かが「大人になってからも、ピクニックメンバーで一緒に暮らせたらめっちゃええな」と言った。みんなも「めっちゃいいやん! そうしよう」と早速部屋の間取り等の話で盛り上がった。それは公園など出先ではなく、実際に住宅の一室で、このメンバーで過ごすからこそ出てきた、普段は出てこない話題だった。

「でもまあ、無理なんじゃない?」その盛り上がりへ水を差すように僕は言った。「なんで?」なんでかは僕にもわからない。僕も、この仲の良いメンバー五人で一緒に楽しく暮らしたい。今この時間のように。でもそれは、大人の常識に照らし合わせて無理だろうとはわかっていたし、大人の常識というのは結局のところ正しいのであろう、と思っていた。「だって結婚したりとかしたら、一緒には住めないんじゃない?」多分そういうことだろう、と思って言ってみた。「結婚なんかせーへんわ!」とみんな口々に言った、ような気がする。まだ小学生なので、結婚云々は何となく恥ずかしい話題といった捉え方だった。

さて、それから時は流れて四半世紀(!)。今、世の中を見渡してみれば、気の知れた友達と一緒に住む、ということは、それほど常識外れ、というわけでもない気がする。それは楽しそうだし、ダメというような理由は無い。シェアハウス、の概念とも少々違うかもしれないが、そういう生活の在り方はおかしくない。これに限らず、子供の頃思いついた短絡的な「こんなこといいな」は、今の時代になって実は核心をついていることも多い。

しかし、少なくとも実際の我々はそうならなかった。典型的な優等生だったAさんは中学生になってからすぐに不良と付き合い始めるという王道を辿った後、成人して間も無く結婚、上京し、今では子供もいる(Kさんとは最後のピクニック以来会っていないが、父親とは別の方面で顔見知りのため近況を聞く)。Kくんは中学生になってからしばらくして不登校となり、最後に会った時はデイトレーダーをしていた。Tさんは女子短大に入ったということまでしか知らない。Sくんは工業高校でバンドマンになった後、人材派遣会社で叩き上げの営業となった後に独立、今ではよくわからない会社の社長をして、中小企業青年社長会で役員も務めている(ネット上でその断片を辿れる)。あの時こどもらしいこどもだったみんなは、それなりの、それっぽい大人の道を歩んでいる。僕が水を差した通りになった。

一方Oくんは、あの時リアリストだったガリ勉のガリちゃんは今、どうしているのでしょうか? 色々あったような、別にそうでもないような、ともあれ、たった今は……S・堺の盆踊りに来ている。マンション自治会が例年夏休みの時期に、その地域に住む子供たちのために開催する盆踊り。まさしくピクニックメンバーの頃の自分たちを対象にした盆踊りに、その時は来れなかったけれど、今、僕は来ている。その開始を心待ちしている。

そう思うと、何処と無く力が抜けて、我ながら笑えてしまう。僕はいつも一段落、ズレている。子供の頃は、妙に大人びてリアリストを気取り、大人になった今、今更のようにこどもっぽいことばかり考えたりしている。退行しているつもりはないが、結果的には相対的には客観的には、そういうことになる。というか単純に、精神年齢的なものが昔からずっと一定不変で、子供の頃には大人びて見え、大人の頃には子供じみている、というだけなのかもしれない。

これ、に限らず色々と思い当たる(色々と)。前半戦始まった途端この先の苦労を取り越して慎重な布陣でひたすら守りを固め、後半戦も間も無く終わろうとする頃に大胆な奇襲作戦を描く。結果、やること時期尚早にして、なすこと時既に遅し。

それでいて、こうして顧みている今も、そうするしかなかったし今後もそうだろう、という風に思う。前半のうちから先の苦難を想定すること、それは大切なことだし、後半になってからも時期に限らず楽しいことをし続ければ良いはず。何故それがズレてしまうのだろう。

今でも時々、大浜体育館や浜寺公園、大泉緑地に臨海スポーツセンターへ行く。そこに限らず、もう一人であちこちへと遠出が出来るようになった。一人であれこれと楽しめるようにもなった。あの時感じていた「ピクニックメンバー5人で出かければ、絶対楽しいことになる」という感覚を懐かしく思う。懐かしいけど、まだちゃんと残存している。他の四人はどうかしら。ピクニックメンバーのことを、完全に忘れてしまったということはないと思うのだけれど。

見届 / 2019年4月29日-5月6日上海旅行の諸々

連休の上海旅行で観たもの覚書備忘録控。暇な時に、所感や写真など随時追記する(多分しない)。

2019.4.29

上海戏剧学院「身体建筑师」一日目 (講義)

2019.4.30

宝龙美术馆「觉色敦煌—1650敦煌大展」

敦煌に関する展示だけど、基本コピーばかり。展示空間は木造の渡り廊下やら土やら藁やら並べて無駄に凝っている。なんかトホホな感じだけど、各種の文書類など世界観の説明など面白かった。

红星电影世界「撞死了一只羊」

チベット映画。アート系。映像美的な。ふーむ。

上海戏剧学院「身体建筑师」二日目 (実演)

2019.5.1

上海外滩美术馆 「托比亚斯・雷贝格:如果你的眼睛不用来看、就会用来哭」

Tobias Rehberger「If you don’t use your eyes to see, you will use them to cry」

トビアス・レーベルガー「見るために目を使わないのならば、泣くためにあるのだろう」?

云峰剧场「再见徽因」

事前にチケットをとっていた演劇。建築史家で詩人の林徽因の評伝劇。なんか20年くらい前の普通の演劇という感じで、演出は極めて古くさい。淡々と進行する。客席に向かっての状況説明独白が多過ぎる。まあ、そういう舞台を選んでしまっただけだが、日程的にこれしか選びようがなかった(上海の演劇シーンについてはまた別途)。林徽因の存在を知れたのは良かった。

プロジェクターによるテロップの投影はなかなか格好良かった。客席からは要所要所で笑いどころの反応も素直にあった。で、ラスト近く、林徽因が晩年、病床に伏せっていると、ある女性が見舞いにくる。この段階で初登場、一体誰? そして舞台上に名前が映写される。張幼儀。ここで客席、僅かながら「ほほぅ」的な反応がある。たれかしら。メモして帰国後調べると、あわわ……。張幼儀が林徽因を訪ねる史実は無いと思うのだけど、この辺が脚本家のアレンジか。

星梦剧场「SNH48 H队《头号新闻》」

チケットの手配についてはこちらのブログを参照させていただきました。

http://blog.livedoor.jp/mango_no2-101107/archives/6787649.html

ええ人や。

宋雨珊推し。

2019.5.2

上海影视乐园

所謂映画村。1930年代の南京路辺りを再現。はりぼてが好きなので、今回の旅のお楽しみの一つ。再現された建築群は、一目にインパクトあったが、うーん、あんまり。幾つか建築の、位置関係を知りたかったんだけど、これは……抽象的な再現なんですね。当たり前か。架空の商店などがメインとしてある。

何年か前の上海ナビなどの解説では、飽くまで映画撮影スタジオとしてあって観光要素は副次的なもので食べるところも少ないので要注意、とあったが、現在は(祝日もあってか)観光要素しかない感じ。撮影なかった。

が、中にある、衣装を中心とした資料展示「上影服道展馆」は面白かった。そこにあった本来の建築計画である模型を見ると、抽象化でなく再現を試みようとしていたらしく、疑問だった点も知ることができた。良かった。また、そこで放映されていた、中国最老という映画「労工之愛情」が滅茶苦茶面白かった(今調べたら日本でも何年か前に上映イベントがあったみたい)。

上海当代艺术博物馆「挑战的灵魂:伊夫・克莱因、李禹焕、丁乙」

「伊夫・克莱因」はイブ・クライン。「これイブ・クラインみたいやなー」と最初思ってた。

上海当代艺术博物馆「陈福善 中国当代艺术收藏系列展」

上海当代艺术博物馆「埃莱娜・比奈:光影对话三十年」

広场舞

2019.5.3

宝龙美术馆「西方绘画500年东京富士美术馆藏品展」

宝龙美术馆「百川汇流——书藏楼珍藏展」

上海海派美术馆「以春天的名义—纪念新中国成立70周年上海艺术家作品邀请展」

宝龙美术馆も最近出来た新しくて大きな美術館だけど、そのすぐ隣にこれまた新しく大きな美術館が。前に来た時こんなんあったっけ?

周五主麻日清真市集

上海図书馆

入館にはカードが必要。日本人観光客でも比較的容易に作れるみたい。でも僕が行った時間帯は既に事務が打ち切られていた。が、通してもらった。ありがとうー。

上海戏剧学院「妻妾成群」

2019.5.4

大世界

上海当代美术馆「后当代城市自白7019」

広场舞

2019.5.5

春美术馆「虚拟平面—上海纸本绘画」

文庙周日旧书刊市场

复星芸术中心「草间弥生:爱的一切终将永恒」

博悦汇影城 外滩金融中「雪暴」

広场舞

死ぬのが怖い part 2

相も変わらず、死ぬのが怖い。日々震えております。

こちらの続きです。別に続いてはないけど。

突然ですが「今日からヒットマン」(むとうひろし,日本文芸社)という漫画を御存知でしょうか。「ミナミの帝王」の掲載誌で御馴染み、おっさん向け週刊漫画誌「週刊漫画ゴラク」に約十年連載されていたアクション漫画。この種にしてはスタイリッシュで高い画力、ガンアクションあり、お色気有り、連載中から終了後の現在も定期的に廉価版コンビニコミックが発行されるような、王道の大衆向け娯楽作品で、僕もその客層に含まれるため、目にする折々読んでいる(この手の漫画はペーパーバックが似合いますね)。

あらすじ。主人公、稲葉十吉は三十代半ばの優秀な食品会社の営業係長。優秀といってもスマートなエリートタイプというより、無能な部下と上司に挟まれ、取引先の接待と自社製造工場との納期交渉に奔走する、実直でタフで機転もある、といったタイプ。

そんな稲葉が接待帰りの或る日、交通量の少ない山間道路で勃発していた犯罪組織の抗争に、偶然巻き込まれる。そこで瀕死の重傷を負っていた凄腕のヒットマン、通称「二丁」の臨終に立ち会い、強制的にその仕事を引き継がされる。以降、プライベートや負債を人質にされる形で、稲葉は「二丁」の名前と所属と因果を引き受け、営業で培った機転を武器にし、ヒットマンと会社員との二重生活を過ごすことになる。

表と裏の二重生活というシチュエーションは、同じく大衆漫画の大御所「静かなるドン」にも共通し(夜はヤクザの組長、昼は女性用下着メーカーのお荷物社員デザイナー)、主な読者層であろう平凡なサラリーマンが持つ(?)変身願望を刺激する。その綱渡り具合も面白く、情報屋に敵の所在地と一緒に、食材の余剰在庫を持つ卸売業者を尋ね、表と裏の急場を同時に凌ぐ、といったシーンもある(ちゃんと教えてくれる情報屋がいいですね)。

他にも色々この漫画には面白い点が幾つもあって、そのひとつが「現代的な」裏社会組織の設定。この漫画には昔ながらのヤクザも登場するが、それは比較的上層レイヤーの裏社会に過ぎない。主人公が所属し舞台となるのは、より深層の裏社会にある「コンビニ」と呼ばれる組織。その名前通り、システマティックな構成で、組織は支店ごとに縦割り、本部によって実績が監視され、それを操る黒幕たちの姿は、幹部たちにとっても謎に包まれている(実務と経営が切り離されている現代の会社のように)。それでいて組織のルーツは「東北の漁村が閑散期の密猟のために興した互助会」というのも、なんか説得力があって面白い。他に、敵対組織「スーマー(スーパーマーケット)」、新興組織「ヒャッキン(殺人の依頼料が百万円均一)」、中立の銃器店「サカヤ」などが登場する。「静かなるドン」と大きく違うのは、従来型の泥臭さや破天荒さと一線を画した、こうした現代的な新しい裏社会像の設定だといえる(この手のフィクションをそんなに知らないので、この漫画独特のものでなく、映画や小説など雛形が別にあるかもしれない)。

……と、「今日からヒットマン」は大変面白いのだけど、個人的にこの漫画に違和感を覚える点がひとつある。それは「死にやすさ」、つまり、致死率。何せガンアクションなので、脇役はどんどん死んでいく。組織間/内部抗争も多く(後半は殆どそれ)、時に多勢と多勢がぶつかりあって、ひたすら死んでいく。主人公が引き継ぐ伝説的なヒットマンの名前に引き寄せられて、続々と凄腕の敵方ヒットマンも登場し、その引き立て役としてまた多くの人が死んでいく。主人公は、まあ漫画なのでご都合主義的に生き抜くわけだが、表としての顔が本来である稲葉に、死の重みを与え対比させるためにも(メメント・モリ)、誰かが代わりに死んで行く。

「フィクションとはいえ、こうも簡単に人を殺す描写をして残酷だ、不謹慎だ、怖い」という意味ではない。こんなに致死率が高いなら、そもそも裏社会で生きるメリットがないのでは? ということだ。この点は、リアルさに欠けるのではないか。フィクションを楽しむ上では野暮で些少な点かもしれないが、登場人物全員の根本的な行動原理に関わるので、ここを飛ばせば全体が白けてしまう。

何故彼らは高いリスクを負って、裏社会で働くようになったのか。カタギの世界では得られない高収入故だろう。劇中ではしばしば、この仕事や抗争にかかる金額が具体的に示される。賞金首のヒット、数億円のダイヤの輸送など。それらは勿論高額だが「コンビニ」として考えると、売上の多くは経費が占め、組織それ自体の維持費も必要とするだろうし、最終的に個人へ落とされる報酬は、単純に関わった人数から割っても、到底命をかける金額には至らないのでは、と思う。

「コンビニ」の構成員は主に「店員」と呼ばれるが、準構成員として「バイト」と呼ばれる身分もある。いづれにせよ、抗争にあっては、下っ端から先頭に立つので、店員もバイトも、まあ死ぬ。危険を冒してまで「コンビニ」でバイトするメリットは感じられない。生き抜いて幹部まで昇進し多額の収入を得ても、多忙さと気苦労と、そして常に暗殺の危険に晒されることを考えれば、やはり割にあわない。

しかし、劇中に登場する「コンビニ」の店員たちは、それなりにカジュアルな物腰で主人公と接し、真面目に仕事をこなしていく。そして死んでいく。

何年か前、邦画好きの同僚から「仁義無き戦い」を勧められて観た。邦画好き特有の謎の拘りから、シリーズ途中作品から観るよう指示され、ストーリーは全く理解できなかった(まあ、あれは最初から観てもわからなさそうではある)が、印象に残ったシーンがある。かの小林旭演じるヤクザが、抗争に備えて呼んだ(?)助っ人らの飲み屋等で散財した請求書を、算盤で計算するシーン。

何せ命を賭けてもらっているので、その報酬として遊び代は負担せねばならない。このシーンを通じて聞いた話か思い出せないが、アウトローたちは斯くして、この瞬時の享楽と引き換えに、命を賭けている(これ漫画「ドンケツ」(たーし,少年画報社)で知ったんだっけかな? 忘れた)。何時死ぬかわからない、どころか、何時かは必ず死ぬことはわかっている。ただ、故にこそ、その瞬間までは飲み打ち買い、散財を尽くす。

なるほど、と思う。僕如く慎ましく穏やかに生きても、実のところ誰しもがヤクザの鉄砲玉と同じく「何時死ぬかわからない、どころか何時かは必ず死ぬことはわかっている」。「今日からヒットマン」に登場する裏社会の下っ端たちは、致死率に対する報酬額が割があっておらずリアルでない、と思った。でもそれは「致死率」が、僕ら表社会であれば「0」とした場合だ。そうでないならば、再検算が必要となる。比せば、或は、割にあわずとも、裏社会生活が選択肢くらいにはなるのだろうか(故ビスケット・オリバが言う通り、高級食材は普通の食材の何百倍も値段が張るが、美味さ自体はせいぜい数倍程度。が、それでも、より美味いものは高級食材でしか到達できないなら、割に合わなくても支払うしかない)。致死率の高さと引き換えにした、或る程度の高収入。そして、果たして、僕の致死率と現在の給与額は、割にあっているのか。

附録

そんなことを日々考えると、劇団乾杯旗揚げ公演(1999年)を思い出した。旗揚げ公演は短編コント集で、今の高尚な芸術路線と違い、所謂黒歴史扱いだが、僕はここで「死」にまつわる二編の寸劇を書いていて、今とあまり考えることが変わっていない。下記に概要を記す。

「人命尊重バー」

典型的なハードボイルドアクション映画のワンシーン。舞台は、ジャズがBGMとして流れるような、ラグジュアリーなバー。そこでグラスをあおる主人公。突如、敵対組織から送り込まれたヒットマンが乱入し、銃を乱射する。バーテンダーや他の客ら脇役は流れ弾に当たり死亡するが、いちはやく身を翻した主人公は素早くヒットマンに間合いを詰め銃を取り出し……なんか格好良い決めゼリフを言って、ヒットマンを返り討ちにする。

と、そこで袖から演出家が現れ、倒れ臥した死体を一瞥した後、重々しく以下の如きセリフを言う。「こういうシーンがハリウッド映画等でよくありますが、いくらフィクションとはいえ、脇役とはいえ、あまりにも人命が軽んじられているのではないでしょうか。そこで、人命を尊重した新しい演出を考えました」

死体役たちはやれやれと起き上がり、再び、バーで飲んでいるシーンから始める。先刻と同様にヒットマンが現れ、銃を乱射し流れ弾が脇役に当たる……ごとに舞台はピタリ一時停止、先ほどの演出家が死者の側に立ち、知られざる彼の名前と経歴と享年を読み上げる。「……そこでたまたま立ち寄ったバーで流れ弾に当たり……死す!」再び舞台は動きだし……と、これを人数分繰り返す。バーテンダーにも、そして返り討ちにあうヒットマンにも。本筋では決して語られることのない意外な経歴も明かされたりする(バーテンダーを目指した理由、ヒットマンが裏社会へと足を踏み入れる要因となった不遇な少年時代など)。

「如何でしたでしょうか。これこそ人命を尊重した、新時代の演出といえるでしょう」と演出家は締めくくるが、結局は脇役としてあっさり死んでいくことに変わりはない死体たちが立ち上がり「お前も死ね!」と演出家を襲いかかるところで暗転、チャンチャン!(……こう書くと結構面白くないですか、そうですか)。

「不条理西部劇」

これはシリーズもので幾つかパターンがあり、短編集の構成らしく、途中途中に挟まれる。西部劇の決闘でよくある(でも具体例はフィクションでもひとつも思い出せない)ガンマン同士が背中合わせに既定の歩数を進めたところで瞬時に向かい合って撃つ、というあれ、のパロディ。立会人が定めた歩数が千歩で誰もいなくなったり、立会人とも全員死んで誰もいなくなったり、と極めてしょうもないギャグ。短編の間に挟む、より短い掌編。

が、公演の終盤、ギャグでなくシリアスな展開となる。定めた三歩のところを、片方は卑怯にもすぐ後ろを振り向いてこっそり相手の背中にくっつき、もう一人が振り向いた時、既に銃口は確実な距離で相手の額を捉えている。そういうオチか。が、二人の会話は続く。これは一言一句を覚えているのでそのまま書き下してみよう。

「(銃口を向けられ、窮地に陥るも笑みを浮かべ)不条理だな……」

「(卑怯さを自覚しつつも勝利の余裕で)ああ、そうだな。だが人生そんなものさ」

「(不敵な笑みから突如激怒し)ふざけるな! ……お前如きが人生を語るんじゃない」

「(思わぬポイントで怒られて戸惑いながら)なるほど。でもそれなら、一体誰が人生を語れるというんだ?」

「(銃口を向けられながらも再び平静となってニヤリと笑い)死に直面したやつかな。つまり俺だ」

「(優位に立ったはずが逆に優位に立たれて悔しく)確かに。俺はお前を追いつめたつもりだが、随分差をつけられちまったな。だが、これで対等だ(銃を降ろす)」

「(素早く銃を抜いて突きつける)形成逆転、だな」

「しかし、俺は死について語るに相応しくなった、はずだな!」

「これから死ぬやつに、それが何の意味をもつ?」

「……不条理だな」

「ああ、そうだな。だが人生そんなものさ」

で、暗転。(……こう書くと結構面白くないですか、そうですか)。

それはそれとして、一案

最近思いついた「死の恐怖」対策。「死について考えるのを一切止める」……まあ、普通ですね。死について考えても死は避けられないし、死んだ後には何も考えることができない。ならば「死について考えない」より更に進めて「(自分の)死、という概念そのものを無くす、というか無い」。ふむ、これは結構良いかも。普通というか、みんな標準これ、という気もするが。死ぬ瞬間まで死はないし、死んでからは死んでるから死を感じ取れない。故、死という概念はない。つまり、死なない。

この案の弱点としては「何時かは死ぬから後悔のないようにがんばろー」的なブーストをかけられなくなる、ということですね(そんなブースト使っているか? や、僕結構使ってる。むしろこれが従来の死の恐怖対策)。死を無くせば、ただ生があるのみ、ではなく、生の概念も消失する。……あと、まあ根本的に、こんだけ死を恐れる作文しておいて今更そっちへは移行できない、というのも。

痛みも、苦しみも、病もある。他人も死ぬ。だが、私は死なない。

連環画計 / 上海游記 二

こちらの続きです。

さて、前回はうだうだ書きましたので、さくさく参りましょう。旅行前、何ぞ中国に関する面白いものごとは無いかと大型書店へ。先ずは1階の実用書棚でガイドブックや旅行記を漁り、次に2階の文芸書棚で中国現代文学を探し(前回は莫言「白檀の刑」を持って行き、青島の高速鉄道駅での待ち時間で読み終えた。これは青島の駅で読むのに最も適した本で、そういうのにまた出会えたら良かったんだけど、残念ながら今回それらしきは見つけられなかった)、それから3階の社会科学書棚で中国時事問題にも当たり……と、死亡遊戯スパルタンX(FC版)の如く、上へ上の階へと歩みを進め、ついに4階の人文書棚で、一冊の本に巡り会ったのでした。

中華図像学の泰斗、武田雅哉先生の科研費付研究書「中国のマンガ<連環画>の世界」(平凡社,2017)。即ち連環画とは……と、この本を前にして僕が言うことなど何も無いので、是非そちらをお読み頂くか、ご検索くださいませ。

連環画は中国で発行された、小判の絵物語本。小人書ともいう。日本でいう絵本・劇画・漫画・フィルムコミック等の要素を併せ持つ。主に路上の露店で安価に販売、又は貸出され、子供から絶大な人気を得たが、神怪物を始めとする俗な内容は、時に知識人や当局による議論の対象となった。一方でその人気から国民教育の有効な手段としても企図され、後には共産党の宣伝に利用された。これらの点は形式が違えど日本の街頭紙芝居の歴史を連想させるが、中国では20世紀間の長期に渡って発行され、早い段階から芸術的価値についても認められていた。

以前、別の方面に用意した概要より

お恥ずかしながら、連環画、なるものの存在を、この瞬間まで全く知りませんでした。京都国際マンガミュージアムでも展覧会があったんですね。不覚。

これは……手に取りたい、読みたい、欲しい(そんで見せびらかしたい)! 判型、色彩、画風、内容、歴史……何処をとっても蒐集欲をかきたてさせられますね。さてこの連環画、僕如き素人でも手に入れることができるでしょうか。

ガイドブックにも観光地として紹介されている文廟(孔子廟)では、毎週日曜日に古本市が開催されているという。そこで連環画が売られているかもしれない。上海には土曜の夜に到着、一週間後日曜の昼に出発だから……到着翌日の日曜日しかチャンスはない。まだ右も左もわからないが行くしか無え!……と別段気張る必要はなく、文廟は上海中心部、駅からも近く、行くことは容易。

が、生憎その日は雨。雨の上海。チャイナブルー、かなわないよ、とても。果たして、古本市は開催されるのでしょうか。しかも、ちょっと出遅れたし(宿が郊外なので中心部まで一時間くらいかかる)。人民広場駅から乗り換えて、最寄りの老西門駅へ到着。駅出口で現在位置と目的地までの方向を確認し、出発する(この時は未だ彼の金盾が発動しておらず、GoogleMAPが使えた。でも今思えば最初から百度地図見ていた方が情報が細かく、良かった。郷に入りてはオモテヤマネコ)。で、徒歩数分、取り敢えず文廟路の入口に到着。

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文廟路の門

文廟路の門の脇には古書店があった。

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ここに並ぶのはまあ、普通の古本でした。この辺りは他にも幾つか古書古物店が並ぶほか、アニメ関連グッズや玩具屋などの店も並ぶ。

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玩具店

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何かのポスター。「永不落幕的二次元世界」!

廟の周辺なので、冥銭を売っている店もあり。なかなか混沌としています。

間抜けにもうっかり廟の前を通り過ぎつつ、引き返しつつ、いざ入ろうとすると門前の係員に止められ、入場券を買うように促される。外から中の様子は見えない。静かな入口からは、とても古本市をやっているような気配は感じられないが……果たして券を買い廟に入ると。

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やってたわ! この雨の中。とは言え、天気の所為なのか、時間の所為なのか、一部の店は畳み気味。だが壁際で屋根のある店はまだまだやってそう。果たしてこの中に、連環画を取り扱う店はあるのでしょうか。四天王寺や大阪天満宮で培った古書古物探しの霊感は、ここ孔子廟でも通用するか、ナムナムと呪文を唱えていると…………

……あれ、と言うか……

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むしろ連環画ばっかじゃん!

連環画市かっつーくらい、複数の業者が展開。ということで、入手は極めて容易でした。上海土産にお勧めです。

(以下、現地の人とのもっともらしい会話がありますが、勿論中国語が片言もわかるわけなく推察する能力もないのですが、諸々翻案し、フィクションとしてお読み下さい)或る店から何冊か選び、これ頂戴おいくらですか? と売主と思しきおじさんに聞く。が、おじさん苦笑いして「あー、こっちは俺のじゃないんだよ。今そいつ昼飯食べに行ってて……おーい! 客が来てるぞー! ……うーん、ま、いいか。どら見せて。3冊か。じゃあ30元でいいや」と、代わりに雑な会計をしようとする。ところへ、慌てて売主が戻り「ちょっと待て待て、30元って……ほら、これは一袋に上下巻2冊入っているだろ。計4冊だから40元だ」と値段を訂正する。

ということで、連環画の相場は一冊10元……と、シナ通気取り堂々書くと詳しい方から「タハハ、連環画如きに10元とは哀れな、ぼられていると気付かずに……」と思われるかもしれません。ただ別の店では「一冊10元」という表示もあったので、多分そうだと思います。最初から本来の売主と話していたら、もっとぼられたかもしれません(別の本ではぼられた)。10元たら160円くらい? 安い、と思うところですが、日本だと古い文庫やら漫画で一冊100円、それよりも更に小さい判型、元より子供が買う駄菓子如き廉価本だと考えると、雑多に売っているように見えて、飽くまで好事家向けの値段だと言えるかもしれません(包子5個分ですもの)。前掲の本に詳しいですが、中国では既にノスタルジーの対象を通り越し、コレクターも存在するよう。

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購入した連環画

また(それほどよく調べたわけではありませんが)店に並ぶのは多く70年代から80年代発行で、これが既に名作再販の向きもあり、本当に貴重な連環画というのはまた別にあるかと思われます。写真左下の「三毛流浪記」(張楽平)は1930年代から始まる有名なシリーズ。半端な知識で見つけた瞬間は驚きましたが、発行は80年代のもので、珍しいものではありません。

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ところ移り変わりまして、多分上海で一番大きな新刊書店、四馬路にある上海書城。最上階の芸術書コーナー。西遊記や三国志など、名作連環画については、このように箱入りで新刊書店でも売られています(日本における児童書セットみたい)。連環画は(日本の街頭紙芝居と違い)往時から芸術として評価され、共産党にも宣伝に重用されたので、これらも復刻再販ですらなく、路上での流通が無くなっただけで、引き続き重版されて今に至るだけかもしれません(この店ではガラスケースに入れられていますが、そんなに値段は高くない。こっちも買っておけば良かった……)。

一方で、当局や識者が管理する以前、子供を夢中にさせて大人が眉をひそまえた、神怪が活躍する荒唐無稽な武俠もの、そうした野生の連環画というものは、前述の本にもあまり紹介されていません。それを読みたいのだけれど。

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さて、ところ変わりまして、こちらは、某所の片隅にて行われていた、連環画の展示(改革開放40周年ということで、当時を懐古する展覧会の一部)。ワー、これだけで一日中楽しめますね。残念ながらそんな余裕無かったのですが。

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これは……ドラえもんですね。これら表紙は同系統ですが、中身は日本のコミックを、コマ割りは再構成しつつ(勝手に)転載したものと、中国人が二次創作的に書いたものと二種類ありました。普通の連環画を見ていると中国人凄い絵上手い! となるのに、漫画となると表紙のように、如何にもまがいものタッチで、同じ絵なのに用いる技術と感性が全く違うとわかります(藤子の偉大さが滅茶苦茶わかります。普段意識しないけど、これと比較すれば痺れるほどの上手さ!)。

※ デフォルメした「漫画」とリアルな「劇画」の二種類があるとして、日本は創成期からこの二つが共に進化してきたと思うのだけど、中国の連環画を見ていると、伝統的な絵画からずっとその延長線上としての(無理に分類すれば)「劇画」が展開してきた、という感あります。

※ 斯く思えば、前掲の「三毛」シリーズは、中国オリジナルにして漫画調と連環画の代名詞の一つでありつつ、分類としては結構珍しいのか? 他に漫画調の連環画は、僕が見た限りでは海外の転載ものが中心。何故、中国では「漫画」が発達しなかったのか(と言うか、何故日本では「漫画」が発達し過ぎたのか、か)。

(追記)当初、この連環画版ドラえもんのタイトルを写真をご参照の通り「J当」と誤読しており、そのように作文しておりました。Wikipediaで調べたところ、ドラえもんの中華圏でのタイトルは現在の正式な「哆啦A夢」他には「机器猫」「小叮噹」があり「J当」とは謎だ……きっと「阿Q」と関連があるに違いない! などと適当言っておりましたが、「小叮噹」の略字ですね、即ち「丁当」。や、丁かもなとは思って検索はしたんですけど見つからなくて(言い訳)。まあ、ともあれ。

※ あと、更に今調べたところ「三毛」シリーズの初出は「大広報」という新聞連載なので、連環画の定義によりますが(内容か、流通か)、この判型での「三毛」は飽くまで「復刻再構成版」ということかもしれません。この伝でいくと面白いのが、往時から「連環画法」という連環画業界の雑誌があり、これは普通の判型(縦)なので、そこで掲載される連環画は結果として新しい表現手法を開拓していった……というの。現代でいうと、既存の漫画を電子化していくうち、あれそもそもこの「コマ割り」って根本的に必要? みたいな現象ですね。すごーく面白い。

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写真右の本は新華書店で見つけた「小人书大人物 中国连环画大家群英谱」(林阳,湘南美术出版社,2017年)。連環画家列伝。華麗な絵がカラーで沢山見れます。あー、良い本見つけられて良かった。この本は、最初に紹介した武田先生の著作より後の新しい本なので、連環画研究はまだまだ始まったばかり。

写真左の本は、日本で事前に入手していた「中国の劇画―連環画」(田畑書店,1974年)。連環画の名作3作品を中国語+日本語訳でまとめて読めて、とってもお得。しかし版元の田畑書店といえば、往年のゴリゴリ社会科学書出版社(最近、復活した模様)。それが何故、連環画を? ……と平成生まれの僕は疑問に思ったわけですが、ヒント;共産党。収録されている西遊記は日本でも御馴染みのものですが「三蔵のように口先ばかりの平和主義でなく、孫悟空が妖怪を容赦なく徹底的にやっつけるが如く敵を殲滅せよ」という教訓が強調されています。

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こちらは同書収録「白毛女」のワンシーン、主人公。なんというか、とても良いことがあったのでしょうか。このポーズ。とっても決まっていますね。実はこのシーンだけでなく、全編に渡り、登場人物全員がこの調子、ずっとポージング。なんかすごい不思議な感じ。

それもそのはず、原作はバレエ作品。連環画には映画が原作のものも多くあり、その点も街頭紙芝居に共通しています。画家たちが封切り初日に映画を見て、記憶に残るうちに書き下ろす、ということをしていたそう。こうした娯楽目的の初期連環画以降も、共産党指導による革命思想啓蒙の映画を、順次連環画にしていったみたい。中には絵でなく映像写真をそのまま印刷して説明文を付した連環画もあり、所謂フィルムコミックといえるものもあります。で、バレエも、話を漫画の文法に翻案するのではなく、そのまま「バレエ」の舞台として描く(勿論、構成や作画に工夫は凝らされているとして)……恐るべし共産党のメディアミックス戦略!

……と、めくるめく連環画の魅力については思い馳せれば切りがなく、紙幅も尽きたので、この辺に留め置きましょう(これ書いている間、武田本をあちこち持ち歩いていたところ、どっかラーメン屋辺りに置き忘れてしまったので、うろ覚えで執筆、本稿には間違い思い込みが含まれている可能性大です。ご留意ください。本見つかったら間違い探しします)。まだまだ知りたいことが沢山。何度か文中で述べていますが、個人的には街頭紙芝居と色々比較してみたい(卒論が街頭紙芝居だったので)。それから、そうそう、そもそも読みたい! (連環画も積読中)