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ピクニックメンバーのガリちゃん

それは昨年の、或る夏の日のことでした。


築40年、14階建400戸のマンション「S・堺」。その住民自治会が例年開催するという小さな盆踊りへお邪魔した。このマンションは、僕が生まれてから中学二年生まで過ごした家のご近所にあり、この地域(小学校の校区)で盆踊りはもうここしか残っていない。

盆踊りがあるのは知らなかったけれど、このマンションとは何かと縁が深かった。毎週土曜、この一室で開かれていた習字教室に通っていたし、同級生も多くこのマンションに住んでいた。水泳教室で知り合った年下のN君もここの住人だった。「お父さんって仕事何してるん?」「色んなところのお祭りで屋台を出している」「へえ?」……世の中には「テキ屋」という職業があり、こうして普通のマンションの一室に居を構え家族を養っていることを知った。スーパーファミコン発売直後、その実機をはじめて目にしたのはここの最上階に住むH君の部屋だった。そこで遊ばせてもらったわけではなく、別の用事でお邪魔した時、帰り際にリビングのテレビ台の中に恭しく鎮座しているのを目撃した。あの高級感あふれる灰色。

…………と、こんな具合で取り留めなく色んなことを思い出すが、一番は何より「ピクニックメンバー」のことだ。ピクニックメンバーの一人、Aさんはこのマンションの三階に住んでいた……。以上、あまり意味のない無理矢理な導入。ピクニックメンバー、今となってはやや奇妙な響きを持つグループ名、については以前から文章に残しておきたかったので、ただの切っ掛け。これは他人向けの作文でなく、単に昔のことを忘れないうちに控えただけの、私的な作文となる。最も、別に忘れる心配は無さそう。記憶力が老人性なので、最近のことはすぐ忘れるけれど、昔のことほどよく覚えていて何時までたっても忘れない。というか、生活パターンに変化がないので、単に何時まで経っても記憶が上書き更新されないだけというべきか。

ともあれ。それは僕が人生で一番、無邪気に楽しかった頃のこと。

入学してから初めてのクラス替えがあったばかりの、小学三年生時の、と或る日曜日の朝。僕はまだ、部屋で寝ていたと思う。家の前に数人の同級生が自転車でやってきてインターホンを鳴らし「遊びに行こう」と誘って来た。至ってごく普通の光景だが、そういうことは今までなかった。既に親しい特定の友人が、遊びに誘ってくることは勿論あったけれど、そこにいたのは未だ親しいわけではなかった、同じクラスなだけの子たち。男子も女子もいる。

ハテ一体どういうことだろう、と思いつつ、急いで身支度し、みんなで遊びに行った。詳しくは忘れたけど、大浜体育館に遊びに行った。これまた何の変哲もないことようだけど、当時の僕にとっては新鮮だった。それ以前の友達との過ごし方といえば、近所の公園で遊ぶ、又は友達の家でファミコンをする、つまりごく身の回りでのこと。というか、友達と遊ぶこと自体それほど多くなかったかもしれない。放課後は、単に家で一人ファミコンをする、のが大半。大浜体育館という、自分とは一見無関係な「施設」へ行って、探索したり、ロビーでたむろったり、売店でお菓子を買ったり、自動販売機でジュースを買ったり(当時でも既に珍しい、瓶ジュースの販売機だった)、食堂でうどんを食べたり、観覧席から知らない人達のバレー試合を応援したり、そうして何人もの友達と共に時間を過ごす、というのは初めてだった。また、大浜体育館のある大浜公園はごく近所ではあったが、公園全体が校区外(懐かしい概念)の扱いで、本当は子供たちだけでは行ってはならないことになっていた。僕にとっては「遠出」でもあった。

後に聞いたところ、この日はK君が「なんしか、とにかく、大人数で遊ぼう」というコンセプトのもと、事前に計画して、予めクラスの人達を誘っていたところ、当日になってそれほど人が集まらず、当初誘っていなかった僕の家にも来た、という話だった、らしい。

その後、同じように何人かで遠出をしていく内に、以下の五人が中心として固定メンバーとなっていった。

Aさん。くだんのS・堺の三階に住む。父親は公務員で姉が一人いる。成績は最上位、体育も得意、それでいて嫌味なく明るくておしゃれ、発想も豊かで実行力もある。背筋も綺麗な、典型的な優等生。控え目でありつつ、今から思えば影のリーダーだった。

Kくん。成績は悪かったが、長身で運動神経もそれなりによく、ハンサム。発起人でもあり一見リーダー風ではあったが、場当たり的で落ち着きの無い性格、仕切っていたというわけでもない。自分からおどけて笑いをとるタイプではないが、受け答えや行動にはいつもユーモアがあって、一緒にいると笑いが絶えなかった。

Tさん。成績は悪かったが明るく元気で愛嬌があった。流行に敏感で、玩具が好き。同じく女子のAさんとは幼馴染だったか。大人びて長身のAさんに比して小柄で子供っぽく(そりゃ子供だけれど)、対称的な二人だが仲の良いコンビだった。

Oくん。僕。Aさん程ではなかったが当時成績は良く、しかし体育は最下位で、一時Tさんからはガリ勉の「ガリちゃん」という渾名で呼ばれていた。当時はより生真面目な性格をしており、世間知らずで目立ちもせず愚鈍、自ら面白いことを言いたがるタイプではなかった。立ち位置としては、みんなの行動や発想に驚く、所謂ツッコミ役だったかもしれない。

Sくん。さても、これが変わった奴でした。成績は最下位で運動神経も鈍く、体格も小さめ。短髪にアロハシャツが似合いそうな、小学生にしてチンピラ風の風貌。その見た目だけでなく、まさしく「チンピラ小学生」としか形容しようがない人物だった。といっても(それほど)悪い意味ではなく、明るく社交的で、いつもおどけて、周囲とすぐ仲良くなることができる性格。家は熱心な天理教で父親は建築系の社長だったか裕福、姉はスケバンで、そのため年上の不良に知り合いが多く、出先でよく年上の不良たちに声をかけられていた。何というか、街、と一体化しており、近辺の地理に詳しく遠出に慣れ、商店の人達とよく知り合いになり、行きつけの肉屋ではコロッケを注文する時は自分で揚げていた。突然「今晩風呂に行こうぜ」と小学生にして銭湯に行くのを行楽とするようなセンスを持っていた(彼のおかげで、マンションに改装される一世代前の大浜潮湯に間に合った)。地域ごとの特色をよく理解し、愛好していた。弱きを助け(本人も喧嘩は弱い)義に厚い、かと思えば実際に他校の不良に絡まれた時は、率先して友達を見捨てて逃げたりもする人間味溢れる小物。そして前述の通り成績は最悪だったが、社会科だけはトップクラスだった。

以上の五人。今思い出しても、とてもバランスのとれた五人組だった。実際に遊びに行く時はこの五人組にプラスして何人か加わることもあったし、また男子三人だけで遊ぶことも多かった。が、このメンバーで計画して遠出することを「ピクニック」と呼んで計画的に継続し、この五人組のことを「ピクニックメンバー」と呼んでいた。自然に出来た通称だが、ちゃんと固有のグループ名として五人全員の了解があり、「誰某を正式なピクニックメンバーに加えるか否か」といった討論もあったように記憶している。五年生のクラス替えでメンバーが別れたりもしたが、ピクニックメンバーは常にこの五人で継続した。

浜寺公園(の中の交通遊園)、大泉緑地、臨海スポーツセンターでスケート、他には何処へ行ったっけ。振り返れば、それほどの回数でもなかったのか。定番の行き先は、ごく近場だがやはり大浜体育館。しかし、具体的に何したり、何遊んだりしたのかは忘れてしまった。当時、浜寺の交通遊園の有料アトラクションにはゴーカート以外にフライングスインガーがあった。カラフルなボックスに入ってブランコみたいに体全体で勢いをつけて回転するやつ。これをみんなで繰り返し乗って、かなりの回転数を記録し「浜寺公園史上、最多が出た」とシルバーセンターのアルバイト係員に言わしめ、素直にみんなで大喜びした。何処へ行った時でも、本当に楽しかった。

小学生最後と銘打ったピクニックは、みんなにお願いし、当時僕が好きだった隣の校区のCさんをゲストに迎えた。Cさんは府営団地の上階に住んでおり、当日の朝、僕とKとSの男子三人組で迎えにいった。「頼むから、僕の好意を伝えたり、ひやかしたりするのはよしてくれ」と予め懇願していたが、早速KとSは団地の上階から降りる際、僕とCさんを二人きりにするようにエレベーターを閉めて二人は階段を駆け下りた。気まずい雰囲気を誤魔化すべく「もー……あいつらー」と苦笑いしつつ、してやったりとする二人が駆け下りるのをエレベーターの窓から眺めていたが、次第に体力の無いSが引き離され、Kが途中階でエレベーターを停めて乗り込み、結局Sだけが悲鳴を上げながら一人ぼっちで階段を駆け下りることになった。エレベーターの中、三人で笑いあった。

それより以前、まだ初期の頃。四年生だったか、僕はピクニックメンバーのTさんが好きだった。告白を決意して(かの「あずきちゃん」より早熟)、当時天理教仲間の或る女子が好きだったSと結託して、その子をゲストに迎えつつ、二人密かに告白を目的としたピクニックがあった。大浜体育館で、グループ交際ならぬグループ告白と今となってはよくわからない発想。しかし、いざという時に小心者のSは日和ったため、皆の前で僕と喧嘩となる。事情を知らない周りは、突然どうしてん、となりつつ、その勢いで僕は一人告白を強行する。この様子は翌日に教室中に広まり、当時ヒットしたドラマ「東京ラブストーリー」の東京部分を僕の名前に替えたタイトルを冠し、決め台詞とともに、その後何年もの間、周囲に繰り返し演じられることになる。しかも結果フラれることとなるが、そこは小学生、気まずい雰囲気は長続きせず、ピクニックメンバーは以降長く継続するのだった。

最後のピクニックは中学二年生の時、僕が一学期の終わりに転校した、夏休みの一日。大浜公園で簡易なバーベキューをした。雨が降っていて、乙姫橋の下で、同じようなグループが何組かいた気がする。しかし一体誰がコンロなどバーベキューの準備をしたんだろう。多分、Aさんか。その手の煩わしいことを、なんてことなくこなしていた。その頃、既に久しぶりの集まりだったが、僕はこれからも続くと信じていた(引っ越し先もそれほど遠いわけではない)。でも、それが五人集まった最後となった。結果的に僕の送別会となったが、それが結果的にと考えていたのは僕だけかもしれない、と今書いていて気付いた。

いづれもピクニック、出先での思い出。導入部分の、マンション「S・堺」に結びつけたのはやはり強引かもしれない。しかし、ここでこそのピクニックメンバーの思い出があった。

それはピクニックではなく、確かクラス劇の練習や打ち合わせに、S・堺にあるAさんの家に集まっている時だった。誰かが「大人になってからも、ピクニックメンバーで一緒に暮らせたらめっちゃええな」と言った。みんなも「めっちゃいいやん! そうしよう」と早速部屋の間取り等の話で盛り上がった。それは公園など出先ではなく、実際に住宅の一室で、このメンバーで過ごすからこそ出てきた、普段は出てこない話題だった。

「でもまあ、無理なんじゃない?」その盛り上がりへ水を差すように僕は言った。「なんで?」なんでかは僕にもわからない。僕も、この仲の良いメンバー五人で一緒に楽しく暮らしたい。今この時間のように。でもそれは、大人の常識に照らし合わせて無理だろうとはわかっていたし、大人の常識というのは結局のところ正しいのであろう、と思っていた。「だって結婚したりとかしたら、一緒には住めないんじゃない?」多分そういうことだろう、と思って言ってみた。「結婚なんかせーへんわ!」とみんな口々に言った、ような気がする。まだ小学生なので、結婚云々は何となく恥ずかしい話題といった捉え方だった。

さて、それから時は流れて四半世紀(!)。今、世の中を見渡してみれば、気の知れた友達と一緒に住む、ということは、それほど常識外れ、というわけでもない気がする。それは楽しそうだし、ダメというような理由は無い。シェアハウス、の概念とも少々違うかもしれないが、そういう生活の在り方はおかしくない。これに限らず、子供の頃思いついた短絡的な「こんなこといいな」は、今の時代になって実は核心をついていることも多い。

しかし、少なくとも実際の我々はそうならなかった。典型的な優等生だったAさんは中学生になってからすぐに不良と付き合い始めるという王道を辿った後、成人して間も無く結婚、上京し、今では子供もいる(Kさんとは最後のピクニック以来会っていないが、父親とは別の方面で顔見知りのため近況を聞く)。Kくんは中学生になってからしばらくして不登校となり、最後に会った時はデイトレーダーをしていた。Tさんは女子短大に入ったということまでしか知らない。Sくんは工業高校でバンドマンになった後、人材派遣会社で叩き上げの営業となった後に独立、今ではよくわからない会社の社長をして、中小企業青年社長会で役員も務めている(ネット上でその断片を辿れる)。あの時こどもらしいこどもだったみんなは、それなりの、それっぽい大人の道を歩んでいる。僕が水を差した通りになった。

一方Oくんは、あの時リアリストだったガリ勉のガリちゃんは今、どうしているのでしょうか? 色々あったような、別にそうでもないような、ともあれ、たった今は……S・堺の盆踊りに来ている。マンション自治会が例年夏休みの時期に、その地域に住む子供たちのために開催する盆踊り。まさしくピクニックメンバーの頃の自分たちを対象にした盆踊りに、その時は来れなかったけれど、今、僕は来ている。その開始を心待ちしている。

そう思うと、何処と無く力が抜けて、我ながら笑えてしまう。僕はいつも一段落、ズレている。子供の頃は、妙に大人びてリアリストを気取り、大人になった今、今更のようにこどもっぽいことばかり考えたりしている。退行しているつもりはないが、結果的には相対的には客観的には、そういうことになる。というか単純に、精神年齢的なものが昔からずっと一定不変で、子供の頃には大人びて見え、大人の頃には子供じみている、というだけなのかもしれない。

これ、に限らず色々と思い当たる(色々と)。前半戦始まった途端この先の苦労を取り越して慎重な布陣でひたすら守りを固め、後半戦も間も無く終わろうとする頃に大胆な奇襲作戦を描く。結果、やること時期尚早にして、なすこと時既に遅し。

それでいて、こうして顧みている今も、そうするしかなかったし今後もそうだろう、という風に思う。前半のうちから先の苦難を想定すること、それは大切なことだし、後半になってからも時期に限らず楽しいことをし続ければ良いはず。何故それがズレてしまうのだろう。

今でも時々、大浜体育館や浜寺公園、大泉緑地に臨海スポーツセンターへ行く。そこに限らず、もう一人であちこちへと遠出が出来るようになった。一人であれこれと楽しめるようにもなった。あの時感じていた「ピクニックメンバー5人で出かければ、絶対楽しいことになる」という感覚を懐かしく思う。懐かしいけど、まだちゃんと残存している。他の四人はどうかしら。ピクニックメンバーのことを、完全に忘れてしまったということはないと思うのだけれど。