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(表現の)検閲・規制・不自由・自粛

「(表現の)検閲・規制・不自由・自粛などと大仰な題をもって巷間で流行りの話題に「このワシに言わせれば」式のご尤もな提言を開陳するつもりであろうが、確かに民主的に開かれた議論の場ということであれば一市民として意見を発することそれ自体は止めまいけれど、今や自宅の戸に戯言をワープロ打ちしただけの普通紙を貼り出すだけで芸術作品でござい個展開催中でござると称するほどに落ちぶれた今、そこに検閲も規制も不自由も自粛も観客もありはしまいし、まして税金は専ら納める側、一端のアーティストを気取って大勢を語るとなれば片腹どころか両腹痛い羽目に陥るよ」

……アイヤ仰る通り。それは確かにとても大切な問題で、誰にとっても考えるべき問題でしょうけれど、それは飽くまで一市民の意見として。「自称アーティスト」としては、特に有用な知見などあるはずもない。

……と思っていたのだけど、あれ、そういえば……僕も、何度か、そういったことがあったぞ、と思い出し、以下に控える。知見ではなく、事実の備忘として。まあ、思い出話の、自分語り。

机上文藝 (1998年)

高校生の頃、演劇部であったが、文芸部でもあった。文芸部は入学時、入れ違いで部員は既におらず、概念としてのみ残っていて、そこに一人、入部した(顧問の先生はいた)。

高校一年生の、はじめての、秋の文化祭。文芸部といえば、部誌を作って展示するのが一般的だった。しかし、文化祭で腰を据えて冊子など誰も見まい。そう思い、一教室をまるまる借りて、文芸を「美術部のように展示する」という方法を考えた。

当時一クラスにつき生徒は四十人。教室には四十脚の机があった。それを十列かける四行、前戸から後戸へ一方向の動線で通路を形成するように並べる。その机ひとつひとつにB4サイズの紙を貼る。この一枚ごとに、何やら文章が書かれている。それは詩であったり、短い又は続き物の物語であったり、誰かの戯言であったり。または、その一連に挟まれる、挨拶や前説であったり、タイトルであったり、部員募集のCMであったり。

何とか文化祭前日に四十枚の設営を終え、翌日。登校して再び展示会場に行くと、数枚が机の上から無くなっていた。その時は、あれ? と思っただけで、それほど驚かなかった気がする。風で飛ばされたか。作品は、原本を自宅のワープロ専用機から感熱紙で出力し、それを学校でコピーし、展示していた。原本は別途保管しているので再展示は容易だ。顧問の先生に該当作品の再コピーをお願いしに職員室へ行った。

「実は……」と先生が説明した。昨日の放課後、教職員らによる展示物の一斉巡回があった。そこで「不適当」と判断された作品が取り外されたという次第だ。

確かに巡回がある、という話は聞いていたけれど、まさか自分の作品がそれに引っかかって、知らぬうちに取り下げられるとは思わなかった。無論、抗議した。が、結果としては再展示はかなわなかった。これが僕の人生最初の展示であり(結構わりとそのままの意味で)くらった検閲でもあった。

覚えているのは次の二作品。まず一つ目。登場人物の名前「山本孝」が、同学年の一人の男子と同じだった。山本孝なるキャラクターは全く悪いものではなかったが、ただ名前が重複するだけで何らかの誤解を生む恐れがある、とのことだった。これについては「孝」部分を消してただの「山本」として再展示した記憶もある(名前を変えたくはなかった)。

もう一つ。これは次のようなしょうもない短編だった。悪の組織に潜入している腕利きの捜査官、しかしその正体が露見し捕まってしまう。悪の組織の首領に突き出される捜査官。大ピンチ! 「フフフ、残念アルな。お前の命はここでお仕舞いアル!」ひと昔前の中国マフィア風の首領。「冥土の土産に教えてやるアル。聞くがヨロシ。この組織の真の目的とは……あれ、もう死んでるのことよ!」処刑される前に召される捜査官。本当に「〜アルよ」と話す謎の中国人がいるなんて……冥土の土産話はそれで十分だった……というもの。つまり役割語を話す奴が現実にいるなんて、というオチである。ということで、中国人を架空のステロタイプで描くことが差別的である(と捉えられかねない)、というものだった。これについては「僕も中国人ですが」と反論した記憶がある。しかし、これも再展示は叶わずお蔵入りとなった(その後、展示を観に来た他校の友人に渡し、後年までその友人の学校の部室で展示されることになった、と知ったのも後の話)。

また当初、教室の黒板に「よろしければ感想など書いてください」と書いて促した。これも(展示会場に常駐する係員などいないので)何が書かれるかわからない、とのことで取りやめを指示された。しかし、文化祭が終わって展示を撤去しに戻ると、黒板いっぱいに多数の感想が書かれていて呆然とした。これが、自身の作品に不特定の観客から感想が届けられた最初の体験でもあった。

映像文藝 (2000年)

二年目も机上文藝を開催したが、特に何もなかったように思う。三年目は卒業記念ということで、机上文藝の他、隣にもう一教室借り「文藝博覧会」と称した展示を行った。既にフォーマットが定まり切った机上文藝だけでなく、もっと自由な形での文藝作品も展示したかった。しかし机上文藝だけでも精一杯だったので、こちらは結果的にはあまり作品を用意できなかった。その中でメインとなったのは「映像文藝」である。自宅から持ち運んだテレビモニターで映像作品を上映した(当時はプロジェクターなど想定外)。

映像文藝とは……特に音声もなく、全体でもほんの数分程度。次のような作り。1)カメラが駅改札から構内に入り、エレベータを下る。丁度電車がやって来る。それに乗車すると、中で一人の乗客が「異端者」と極太字で書かれたパネルを顔の前に掲げて座っている。フェードアウト。以上、というもの。2)カメラが駅前の広場を見下ろしている。ふと銀行の入口に視線を向けると、中から「犯罪者」と極太字で書かれたパネルを顔の前に掲げた人が出てくる。フェードアウト。以上。あまり意味がない。ともあれ、何でも無い映像に、太字の「言葉」が出てくる。まあシュールな、っぽい雰囲気だけの作品。最低限の「仕込み」、何かやった感を出すために、スタジオ撮影ではなく、町中を舞台にはしている。

(しかし、後に大学の推薦入試に提出した作品の中で、戯曲や他の文藝作品よりこの映像文藝に評価が集中したので、何が幸いするかわからない)

その一連に一つ。次のようなシーケンスがあった。3)カメラはまず校舎の正面玄関を映す。そのまま進み、構内に入って左手を曲がり「校長室」の表示がある部屋へと入る。その部屋には校長と思しき男がその机に座り「失言者」と極太字で書かれたパネルを顔の前に掲げている。

さて、これには一応、意味がある。文化祭に先立って開催された体育祭。紅白接戦、白熱の決着後、終礼にて赴任間もない校長が次のような話をした。「勝った組にはその努力や意気込みが感じられました。負けた組には、それなりの理由があったと思います」わぁ! と、負けた組の女子生徒が泣いた。この謎の失言はその後それなりに問題となり、反骨の社会科教師なども授業中に言及して校長を非難したりした。

僕としてはこの事件自体に別にそれほど感じるところはなかったのだが、映像文藝を撮り進める内に閃いた。校長室を訪ね「映像作品に協力して欲しい、この札を顔の前に掲げたまま、数分そのまま待っていてくれ」とお願いした。その札に書かれた言葉は校長に見せないまま。

斯くして二年振りに巡回視察に引っかかることになった。校長案件だったためか、この件は教頭と話し合うことになった。教頭はわりあい物腰柔らかく「外部から見に来た人には事情がわからないから、誤解を生む可能性がある」と説得した。高校一年時、不意に食らった検閲と違い、知恵をつけて、それこそ表現の自由を掲げて結構抵抗した覚えもあるが、まあ最後には折れた。その部分を削除して上映することになった。

IYY (1999年)

高校二年生の頃「国際青年年記念堺連絡会」なる堺市の海外研修事業に参加した。かろうじて90年代の中国、それも四川省の少数民族(彝族)居住区などへ行くことができ、今でも感謝している。

が、まあその後、色々あった。

帰国後も、報告誌の作成や報告会など活動が残っている。まず、この報告誌の文案で悶着があった。現地では、我々未成年者を含めて毎夜宴席で強いお酒をガンガン飲んでいたのだが、その様子を匂わせる記述がまず問題となった。他諸々、文章は無難で面白みのない「報告文」へと修正されていった。これについても勿論、抵抗した。が、相手はお役所連中、埒があかぬとして一旦、折れた。ふりをした。

次いで報告会。この無難な文章を読み上げる予定だったが、これをいざ壇上で破棄。別途用意した、事務局による表現の不自由を訴える裏原稿を読み上げた。このサプライズ演出によって事務局との関係は完全に悪化し、同じく中国研修旅行を共にした新しい友人、十数人も一気に失った。

この話にはまだ続きがあり、翌年、当初の報告会用の文案は別途、国際なんとか作文の懸賞に応募し、入選して賞金五千円をもらった(未成年飲酒を匂わせる描写もそのまま)。

更にその翌年、当年度の参加者による海外研修報告会の案内が一応僕にも届けられた。そこには「OBの皆様もその後、ここでの経験を活かした成果があれば、是非ご登壇お願いします」と例年、形だけ添えられる一文があった。僕はそれを受けて、かつて事務局では没とされた文案が別の賞では入選した経緯を皆さんに報告したい、と申し出た。

勿論、それは却下された。「形だけは様々な個々人の活動を尊重すると言いながら、結局のところ無難なことしか認めない」本件には世の不条理が込められている、とプンプン怒った僕は、諸々の経緯を詳述した怪文書を作成し、その報告会の中途に奇装で突如乱入、怪文書をまき、壇上に向けてクラッカーを鳴らした。たちどころに顔見知りの職員たちに取り押さえられ、外へ連行された(その際に投げかけられた「山本君、君は疲れているんだ」というセリフが印象的で、このワンシーンは後に劇団乾杯公演「リ」で再現している)。

尚、この研修事業は現在も続いており、今でも報告会の案内が来ている。時折、出席している。勿論、現行の関係者以外でそのような人間は、僕だけだ。

運動展 (2006年)

今は無き大阪府立現代美術センターの事業で「吉原治良賞記念アート・プロジェクト」という公募があった。最早全てが忘れ去られてしまったが、確かもともと大阪で有名な現代美術家の名前を冠した「吉原治良賞」という美術の公募賞があり、それが何かテコ入れされて、単なる作品ではなく「アートプロジェクト」が対象となった。

アートプロジェクトの性質上、まず書類審査で5組が入選し、その後一定の活動期間を経て再審査し大賞が決まる、というシステムだった。書類に通って入選しただけだが、おかげさまで半年程、活動することができた。これが唯一の公的な援助を受けての活動となる(制作費予算も10万円くらいあった気がするが、一体何に僕が10万円も使ったかは忘れた)。

さて、その入選展となる「運動展」にて。確か20作品くらい展示したのだが、そのうちの一つが計画段階で「これはちょっと……」とセンター側に止められた。それは「お金を盗らないでください」という作品だった。一万円札を、何の囲いもない場所へ、そのまま無防備に展示し「お金を盗らないでください」とキャプションをつける。果たして、この一万円札は、期間中不特定多数の来場者に耐えて最終日まで残るか。或は(やっぱり)途中で盗られてしまうのか。

もしお金を盗られた場合は、センター側から警察へ被害届を提出していただき、もし係員が窃盗の現行犯を目撃したら、容赦なく警察に突き出すという指示も含まれている。指示といっても、まあ、普通作品が盗難にあったらそうしてもらうことになるだろうから、特に無理なお願いというわけではないはずだ(どうぞお持ち帰りください、とわざと誘発する作品ではない。文字通り、お金を盗らないでください、だ)。

しかし、展覧会の来場者を、参加者ではなく場合によっては犯罪者として巻き込むことが密かに想定されたこの作品は、まあ「やめてくれ」と言われた。具体的にどういう風に言われたのかは忘れた。が、これについては、僕自身もあんまりおもしろくねえな、と思っていたので、わりとあっさり引き下がった、ような気がする。

これについては準備中に、同じく入選者であった(いまトリエンナーレにも出品している)藤井さんから「あれは戦えば良かったのにー」と言われた。なるほど確かに、と思った(今思えば、審査中である中で、関係者に悪印象を与えないようにする、という打算もあったかもしれない。そのわりには、別の件でも多いに揉めることになるのだが)。

戦っては無いけど、後日談としては、翌年もあった公募に、これの焼き直しを応募した。僕個人の貯金を全て硬貨に両替して展示する、というもの。特に盗らないでください等と強調しないが、展示期間後には総額が変わっているのではないか、というもの。そもそも「お金を盗らないでください」の前には「お金を入れてください」という作品があった。これは貯金箱を展示して「お金を入れてください」と添えたものである。すると、何故か展示期間終了後に、ホントにお金が入っている。特に理由がなくとも、お金というものは増減する性質を持っている、お金シリーズの集大成であった。

これは一次審査通って(前回入選者だから話くらいは聞いてやろう枠)、二次審査も比較的好感触であったが(講評では大賞に次いで言及された)、チェコの美術家カリン・ピサリコヴァにはかなわなかった(そりゃそうだ)。

さよならNPO(ニッポン) (2010年)

さて最後に、ここまで書いて思い出した、別枠を一例。検閲を回避し、そして偉大な主催者側の温情と寛容さによって展示を実現した例。

これは話せば長いのだが……。かつて(今も存在してるか知らないが)アーツアポリアというアートNPOがあり、若手アーティストを対象とした研修と展覧会の公募があった。で、それに応募した(昔はなんやかんやと応募してたのです)。「なにわーとスクールん」という、センスの塊みたいなタイトルの事業だった(こういう「若手相手だから子供じみた名前でいい」というのは本当に嫌ですね。アートなんだから、ともあれ格好はつけようぜ)。

これも一応審査ありなんだけど、特に落選した人はいなかったのではないか。作品自体は研修を経て作るので、何やるかは参加時点では決めていなかった。

さて、その参加に関して書類提出があったのだけれど、その一枚に「誓約書」があった。仔細は忘れたが「まあ、色々あるだろうけれど、最終的にはこちらの指示に従ってね、それを誓ってね」という内容。そういうのが一般的なのかは知らないけど、これはアカンやろう、と思った。他の若手アーティストらはぽいぽい阿呆みたいに誓約していたが、僕は別途話し合いをもってこれを提出しなかった。

「何か意見の相違が発生するのであれば、話し合えばいいし、主催がそちらである以上、無茶が通るわけではない。事前にアーティストを誓約書という形で縛るのは問題でしょう」

「それもそうですね。わかりました」と言われたかは忘れたが、僕が誓約書を提出しないこと、はあっさり認められた。何せ相手はアートNPO、内心と実務はともかく、理念を掲げれば向こうは否定できない。

しかしまあ、この時点では、僕も飽くまで理念的な話のつもりであり、後にそれが功を奏すとは思っていなかった(向こうもそう思っていなかったから、それをあっさり認めたのであろうが)。

この参加した事業とは関係なく、そのアーツアポリアが別途で開催したシンポジウムがあった。殊勝にも関係事業へマメに足を運ぶ山本であった(そういうことをするのも参加アーティストの中で僕だけ)。そこで入場料誤徴収事件があった。

予めチラシに書かれていた入場料を支払うと、それだけでは足りない、と受付で問答になった。確か第一部と第二部の構成になっていて、どちらかどちらもで入場料が異なる。ややわかりにくいが、チラシにはそれぞれの価格が明記されている。両方参加の場合は資料代がそれぞれ必要だが、入場料は一定(確かそんな感じだった)。ところが、この入場料をそれぞれ取っているので、倍近い料金を徴収されることになる。

僕は開演直前、最後の入場者だった。既にこの体系で多くの人から入場料が徴収されている。なので、この時、僕の訴えは飽くまで「それならチラシの表記がおかしいでしょう」ということだった。問答している時に、アーツアポリアの職員が現れた。そこで僕が訴えると「え、それであってますよ」つまりチラシの表記通りで良かった。受付が間違っていた。入場料すら事前に共有できていなかった事務局が諸悪だが、とはいえチラシの表記があるにもかかわらず、上への確認を渋ってやり過ごそうとしたこの受付は、現在鳥取で大活躍されている蛇谷さんで、なので僕は今でも蛇谷さんとは仲が悪い。

この事業は行政的には「生涯学習」の枠になっていた。その中、受付はおろか、たくさんの参加者も、チラシの表記があるにも関わらず、疑いなく倍近い参加費を払っている。それに気付いた僕の訴えをもっても、検証される体制もない。これでは「学習」どころか、その真逆をいく馬鹿の集団養成所ではないか(ここで前述の「お金を入れてください」も想起してね)。例によってプンプン怒りました。

なので、話を戻して、ここで制作するものは、そのアートNPO内でアートNPOを厳しく批判する、という内容に決めた。

その過程で、この誤徴収事件に関する顛末を厳しく問答しているうちに、一通の内容証明が届いた。アーツアポリアの弁護士からだった。誓約書でアーティストの行動を縛れないので、法的な脅しによって制するハラであった。

展覧会の主催者から参加アーティストへ内容証明を送るケースは結構稀ではないでしょうか。当時運営と折衝にあたったアーツアポリアの理事は中西美穂氏で、現在アーツカウンシル大阪の統括責任者であることは特筆しておこう。

と、色々あったけれど、展示はまあ問題無く、こちらが作ったものは全て規制なく展示された。アーツアポリアは(あの手この手を裏で使ったけど)最終的には表現の自由を守ります。アートNPOですもの!

雑感

この時点での雑感。以上が、今話題の一連と少しでも何か関係性を見出せるかは疑問だけれど。まあ色々ありますね。

表現の自由が問題になる時、それは公権力による介入があった時だけど、逆に言えば「表現の自由」それ単体が問題とされることは難しく、ややこしい。今回、話題のトリエンナーレの件でいえば、バシーンと各種の発言や「中止」という実際があったけれど、多くの場合それを侵害するものがあるとしたら、それは既に行われた後、で気付くのは難しい。

まあ、実際のところ、表現は自由なのか。登場した固有名詞が実在と重複、ってのは、この中でも極めて些細な話だけど。

あと「うちらは表現の自由を守ります。うちら自身を批判? それも守ります!」という表現の自由も、なんか白々しくないかしら、とも思います。泡沫候補の政見が、本来の放送コードではあり得ない感じで、全国に放送される。その時の「ふうむ」感、というのがあるでしょう。いや大切なことやで感。アンデパンダン展の「それはいいことですね」からの「ふむー。色んな作品があっていいよね」感。