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死ぬのが怖い part 2

相も変わらず、死ぬのが怖い。日々震えております。

こちらの続きです。別に続いてはないけど。

突然ですが「今日からヒットマン」(むとうひろし,日本文芸社)という漫画を御存知でしょうか。「ミナミの帝王」の掲載誌で御馴染み、おっさん向け週刊漫画誌「週刊漫画ゴラク」に約十年連載されていたアクション漫画。この種にしてはスタイリッシュで高い画力、ガンアクションあり、お色気有り、連載中から終了後の現在も定期的に廉価版コンビニコミックが発行されるような、王道の大衆向け娯楽作品で、僕もその客層に含まれるため、目にする折々読んでいる(この手の漫画はペーパーバックが似合いますね)。

あらすじ。主人公、稲葉十吉は三十代半ばの優秀な食品会社の営業係長。優秀といってもスマートなエリートタイプというより、無能な部下と上司に挟まれ、取引先の接待と自社製造工場との納期交渉に奔走する、実直でタフで機転もある、といったタイプ。

そんな稲葉が接待帰りの或る日、交通量の少ない山間道路で勃発していた犯罪組織の抗争に、偶然巻き込まれる。そこで瀕死の重傷を負っていた凄腕のヒットマン、通称「二丁」の臨終に立ち会い、強制的にその仕事を引き継がされる。以降、プライベートや負債を人質にされる形で、稲葉は「二丁」の名前と所属と因果を引き受け、営業で培った機転を武器にし、ヒットマンと会社員との二重生活を過ごすことになる。

表と裏の二重生活というシチュエーションは、同じく大衆漫画の大御所「静かなるドン」にも共通し(夜はヤクザの組長、昼は女性用下着メーカーのお荷物社員デザイナー)、主な読者層であろう平凡なサラリーマンが持つ(?)変身願望を刺激する。その綱渡り具合も面白く、情報屋に敵の所在地と一緒に、食材の余剰在庫を持つ卸売業者を尋ね、表と裏の急場を同時に凌ぐ、といったシーンもある(ちゃんと教えてくれる情報屋がいいですね)。

他にも色々この漫画には面白い点が幾つもあって、そのひとつが「現代的な」裏社会組織の設定。この漫画には昔ながらのヤクザも登場するが、それは比較的上層レイヤーの裏社会に過ぎない。主人公が所属し舞台となるのは、より深層の裏社会にある「コンビニ」と呼ばれる組織。その名前通り、システマティックな構成で、組織は支店ごとに縦割り、本部によって実績が監視され、それを操る黒幕たちの姿は、幹部たちにとっても謎に包まれている(実務と経営が切り離されている現代の会社のように)。それでいて組織のルーツは「東北の漁村が閑散期の密猟のために興した互助会」というのも、なんか説得力があって面白い。他に、敵対組織「スーマー(スーパーマーケット)」、新興組織「ヒャッキン(殺人の依頼料が百万円均一)」、中立の銃器店「サカヤ」などが登場する。「静かなるドン」と大きく違うのは、従来型の泥臭さや破天荒さと一線を画した、こうした現代的な新しい裏社会像の設定だといえる(この手のフィクションをそんなに知らないので、この漫画独特のものでなく、映画や小説など雛形が別にあるかもしれない)。

……と、「今日からヒットマン」は大変面白いのだけど、個人的にこの漫画に違和感を覚える点がひとつある。それは「死にやすさ」、つまり、致死率。何せガンアクションなので、脇役はどんどん死んでいく。組織間/内部抗争も多く(後半は殆どそれ)、時に多勢と多勢がぶつかりあって、ひたすら死んでいく。主人公が引き継ぐ伝説的なヒットマンの名前に引き寄せられて、続々と凄腕の敵方ヒットマンも登場し、その引き立て役としてまた多くの人が死んでいく。主人公は、まあ漫画なのでご都合主義的に生き抜くわけだが、表としての顔が本来である稲葉に、死の重みを与え対比させるためにも(メメント・モリ)、誰かが代わりに死んで行く。

「フィクションとはいえ、こうも簡単に人を殺す描写をして残酷だ、不謹慎だ、怖い」という意味ではない。こんなに致死率が高いなら、そもそも裏社会で生きるメリットがないのでは? ということだ。この点は、リアルさに欠けるのではないか。フィクションを楽しむ上では野暮で些少な点かもしれないが、登場人物全員の根本的な行動原理に関わるので、ここを飛ばせば全体が白けてしまう。

何故彼らは高いリスクを負って、裏社会で働くようになったのか。カタギの世界では得られない高収入故だろう。劇中ではしばしば、この仕事や抗争にかかる金額が具体的に示される。賞金首のヒット、数億円のダイヤの輸送など。それらは勿論高額だが「コンビニ」として考えると、売上の多くは経費が占め、組織それ自体の維持費も必要とするだろうし、最終的に個人へ落とされる報酬は、単純に関わった人数から割っても、到底命をかける金額には至らないのでは、と思う。

「コンビニ」の構成員は主に「店員」と呼ばれるが、準構成員として「バイト」と呼ばれる身分もある。いづれにせよ、抗争にあっては、下っ端から先頭に立つので、店員もバイトも、まあ死ぬ。危険を冒してまで「コンビニ」でバイトするメリットは感じられない。生き抜いて幹部まで昇進し多額の収入を得ても、多忙さと気苦労と、そして常に暗殺の危険に晒されることを考えれば、やはり割にあわない。

しかし、劇中に登場する「コンビニ」の店員たちは、それなりにカジュアルな物腰で主人公と接し、真面目に仕事をこなしていく。そして死んでいく。

何年か前、邦画好きの同僚から「仁義無き戦い」を勧められて観た。邦画好き特有の謎の拘りから、シリーズ途中作品から観るよう指示され、ストーリーは全く理解できなかった(まあ、あれは最初から観てもわからなさそうではある)が、印象に残ったシーンがある。かの小林旭演じるヤクザが、抗争に備えて呼んだ(?)助っ人らの飲み屋等で散財した請求書を、算盤で計算するシーン。

何せ命を賭けてもらっているので、その報酬として遊び代は負担せねばならない。このシーンを通じて聞いた話か思い出せないが、アウトローたちは斯くして、この瞬時の享楽と引き換えに、命を賭けている(これ漫画「ドンケツ」(たーし,少年画報社)で知ったんだっけかな? 忘れた)。何時死ぬかわからない、どころか、何時かは必ず死ぬことはわかっている。ただ、故にこそ、その瞬間までは飲み打ち買い、散財を尽くす。

なるほど、と思う。僕如く慎ましく穏やかに生きても、実のところ誰しもがヤクザの鉄砲玉と同じく「何時死ぬかわからない、どころか何時かは必ず死ぬことはわかっている」。「今日からヒットマン」に登場する裏社会の下っ端たちは、致死率に対する報酬額が割があっておらずリアルでない、と思った。でもそれは「致死率」が、僕ら表社会であれば「0」とした場合だ。そうでないならば、再検算が必要となる。比せば、或は、割にあわずとも、裏社会生活が選択肢くらいにはなるのだろうか(故ビスケット・オリバが言う通り、高級食材は普通の食材の何百倍も値段が張るが、美味さ自体はせいぜい数倍程度。が、それでも、より美味いものは高級食材でしか到達できないなら、割に合わなくても支払うしかない)。致死率の高さと引き換えにした、或る程度の高収入。そして、果たして、僕の致死率と現在の給与額は、割にあっているのか。

附録

そんなことを日々考えると、劇団乾杯旗揚げ公演(1999年)を思い出した。旗揚げ公演は短編コント集で、今の高尚な芸術路線と違い、所謂黒歴史扱いだが、僕はここで「死」にまつわる二編の寸劇を書いていて、今とあまり考えることが変わっていない。下記に概要を記す。

「人命尊重バー」

典型的なハードボイルドアクション映画のワンシーン。舞台は、ジャズがBGMとして流れるような、ラグジュアリーなバー。そこでグラスをあおる主人公。突如、敵対組織から送り込まれたヒットマンが乱入し、銃を乱射する。バーテンダーや他の客ら脇役は流れ弾に当たり死亡するが、いちはやく身を翻した主人公は素早くヒットマンに間合いを詰め銃を取り出し……なんか格好良い決めゼリフを言って、ヒットマンを返り討ちにする。

と、そこで袖から演出家が現れ、倒れ臥した死体を一瞥した後、重々しく以下の如きセリフを言う。「こういうシーンがハリウッド映画等でよくありますが、いくらフィクションとはいえ、脇役とはいえ、あまりにも人命が軽んじられているのではないでしょうか。そこで、人命を尊重した新しい演出を考えました」

死体役たちはやれやれと起き上がり、再び、バーで飲んでいるシーンから始める。先刻と同様にヒットマンが現れ、銃を乱射し流れ弾が脇役に当たる……ごとに舞台はピタリ一時停止、先ほどの演出家が死者の側に立ち、知られざる彼の名前と経歴と享年を読み上げる。「……そこでたまたま立ち寄ったバーで流れ弾に当たり……死す!」再び舞台は動きだし……と、これを人数分繰り返す。バーテンダーにも、そして返り討ちにあうヒットマンにも。本筋では決して語られることのない意外な経歴も明かされたりする(バーテンダーを目指した理由、ヒットマンが裏社会へと足を踏み入れる要因となった不遇な少年時代など)。

「如何でしたでしょうか。これこそ人命を尊重した、新時代の演出といえるでしょう」と演出家は締めくくるが、結局は脇役としてあっさり死んでいくことに変わりはない死体たちが立ち上がり「お前も死ね!」と演出家を襲いかかるところで暗転、チャンチャン!(……こう書くと結構面白くないですか、そうですか)。

「不条理西部劇」

これはシリーズもので幾つかパターンがあり、短編集の構成らしく、途中途中に挟まれる。西部劇の決闘でよくある(でも具体例はフィクションでもひとつも思い出せない)ガンマン同士が背中合わせに既定の歩数を進めたところで瞬時に向かい合って撃つ、というあれ、のパロディ。立会人が定めた歩数が千歩で誰もいなくなったり、立会人とも全員死んで誰もいなくなったり、と極めてしょうもないギャグ。短編の間に挟む、より短い掌編。

が、公演の終盤、ギャグでなくシリアスな展開となる。定めた三歩のところを、片方は卑怯にもすぐ後ろを振り向いてこっそり相手の背中にくっつき、もう一人が振り向いた時、既に銃口は確実な距離で相手の額を捉えている。そういうオチか。が、二人の会話は続く。これは一言一句を覚えているのでそのまま書き下してみよう。

「(銃口を向けられ、窮地に陥るも笑みを浮かべ)不条理だな……」

「(卑怯さを自覚しつつも勝利の余裕で)ああ、そうだな。だが人生そんなものさ」

「(不敵な笑みから突如激怒し)ふざけるな! ……お前如きが人生を語るんじゃない」

「(思わぬポイントで怒られて戸惑いながら)なるほど。でもそれなら、一体誰が人生を語れるというんだ?」

「(銃口を向けられながらも再び平静となってニヤリと笑い)死に直面したやつかな。つまり俺だ」

「(優位に立ったはずが逆に優位に立たれて悔しく)確かに。俺はお前を追いつめたつもりだが、随分差をつけられちまったな。だが、これで対等だ(銃を降ろす)」

「(素早く銃を抜いて突きつける)形成逆転、だな」

「しかし、俺は死について語るに相応しくなった、はずだな!」

「これから死ぬやつに、それが何の意味をもつ?」

「……不条理だな」

「ああ、そうだな。だが人生そんなものさ」

で、暗転。(……こう書くと結構面白くないですか、そうですか)。

それはそれとして、一案

最近思いついた「死の恐怖」対策。「死について考えるのを一切止める」……まあ、普通ですね。死について考えても死は避けられないし、死んだ後には何も考えることができない。ならば「死について考えない」より更に進めて「(自分の)死、という概念そのものを無くす、というか無い」。ふむ、これは結構良いかも。普通というか、みんな標準これ、という気もするが。死ぬ瞬間まで死はないし、死んでからは死んでるから死を感じ取れない。故、死という概念はない。つまり、死なない。

この案の弱点としては「何時かは死ぬから後悔のないようにがんばろー」的なブーストをかけられなくなる、ということですね(そんなブースト使っているか? や、僕結構使ってる。むしろこれが従来の死の恐怖対策)。死を無くせば、ただ生があるのみ、ではなく、生の概念も消失する。……あと、まあ根本的に、こんだけ死を恐れる作文しておいて今更そっちへは移行できない、というのも。

痛みも、苦しみも、病もある。他人も死ぬ。だが、私は死なない。