踏文

作文の練習

死ぬのが怖い

死ぬのが怖い。そりゃ誰だってそうだろうけれど、事故や病気など直近に想像される具体的な死のことではなく「誰しもに何時か必ず訪れる、死、そのものについて」だ(寿命以外の事故や病気での死なんて論外、想像の範囲外)。自分の人生の充実度や幸福度とも関係無い(そんなもん関係させたらもっとやばい)。死という完全なる終了(霊とか死後の世界も無いっぽい。それを信じれたら多少ラクなんだろうけれど)、それに比しては大き過ぎる今現在の生の自我(思いつく限りのその全て、は自我に属する)、その落差にも関わらず、避けられなさ。バランスが悪過ぎて配慮に欠けている。これまで大抵の嫌なことは、駄々こねたり知らないふりをしたりして、避けてこれたのだし。最後にそれってあんた。

このように死を恐れることについて、あまり共感は得られない。同じ気持ちを抱える人達と死の恐怖を語り合うことで少しでも気持ちを紛らわせたいけれど(逆に、死にてー、とかいう奴らにはコミュニティがありそうだ)みんな、いつかは死ぬことそれ自体については折り合いをつけていやがる。本当なのか。単に、想像が及ばないだけかもしれない。死、それ自体は当然ながらあふれているし、この年齢になると近親者や同世代の知人ですらも亡くなっていく。物語にも、その性質として現実以上に多数の死が描かれる。フィクションでは概ね、潔く死ぬことは良く描かれ、みっともなく死を恐れることは悪く描かれる。なのでみんな、死、そのものについては受け入れている。本当か噓かはともかくとしても、むしろ気楽に自分の死を捉えている(覚悟の差なく訪れるのも死の怖さ)。

でも確かに、病気や事故ならばともかく「死にたくないよー!」と叫び恐れ戦きながら天寿を全うする老人、というのは聞いたこと無い(やなせたかしはそれに近かったらしいが)。

僕がすがる希望は、年を取るにつれ、心の底からこの達観に至るのではないか、ということである。今は怖くても、死ぬ頃には迎え入れる準備。しかしながら、最近のご老人は健康で、例えば職場でも還暦過ぎた人たちがごろごろ再雇用されていて、何の違和もなく一緒に話しながら仕事をしたりする。日常においては、感性や人格に差を感じない。こりゃどうも達観どころではない。しかし、この人達は僕と違い、あとほんの十数年で、高い確率で死ぬのだ。逆ならやばい。仕事なんてしてられない。膝を抱えて震えている。

もう一つの希望は、なんだかんだ言ってまだわりと先(多分)ってことだけだ。しかし、この希望こそが罠。今迄の人生で「まだまだ先だー」と思ったものが「いやー、あの時まだまだ先だと思ったことが今日だもんなー」という体験が、どれだけあったか。未来といっても、未だ来ないだけであって何時か必ず来ることが既に確定された、最早過去の如き体感速度。

……と、思った瞬間、高鳴る鼓動。今迄の自分が経験してきた未来の過去感覚をもって、今まさに死にゆく自分に縮地し、普通以上にリアルな想像をしてしまう。目前に迫る完全なる無、その先は想像できない、想像という概念すら無い、自分がいない……あらゆることは間違っていても想像は出来るが、想像する自分がもういないとはどういうことだ……無理無理、そんなの耐えられない、死ぬわ……って、だから死ぬのか。時々、この状態に陥り、苦しい。


こうまで死が怖いのは、最初に書いた通り死の無に対し相対的に生の自我が大きい、ってことだろう。エゴイスティック。もし生きることが、もっと朦朧状態であるなら、或いは単に過酷であれば、その過程で死を、少なくとも恐れはしないかもしれない。動物はそうかもしれず、また人間も昔はそうであったろう。現代人特有の、死の恐怖。

また、(概ね)一人で生活していることも関係するかもしれない。一人でいると、知覚の全ては自分のみに還元されるから、自我が肥大化する。僕は死を恐れているだけで、世間でいう所謂「孤独死」を、特段に恐れるわけではない。誰でも死んだら同じ、その同一性がこそ死の恐怖であり、孤独か否かは関係無い。が、孤独が死そのものを強調する、ってのは、ちょっとこれまで想定していなかったリスクかもしれない。

……でも書いてて、それこそ普通とは逆って気もしてきたけど。「俺が死んでも悲しむものはいない(故に死を恐れないぜ)」ってのはフィクションでは定番のせりふ。


特にオチはないけど、死の恐怖を紛らわせるために書きました。「私も死が怖い!」って人がいたら教えてね。