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V

差別や偏見又は日常の些事などでも、古くて間違っていて他者だけでなく時に自分自身も傷つけかねない「価値観」について、それと気づかせる比較的穏健な啓蒙として「呪い」という言葉が時に使われるけど、では「祝福」とは何か、とよく考える。

勿論、この状況における「祝福」とは、単純に良い意味だとは限らない。

わかりやすい例として、ジェンダー。ごくごく話を単純化して、今時分「男らしさ、女らしさ」なんてものを求めるのは間違っている。僕は(見た目のおっさん度と反比例して)所謂男らしくないので、他者から「男なのにおかしい」「男なんだからこうしろ」と批判されたり強要されたりすると嫌な気分になったり、いやそれは、と反発する。この時、呪いをかけられているわけだけど、かける側も他者にそう言わねばならぬことで既に嫌な気分に陥っているのであり、また自身も何らかの局面でそれを求められた時は反発できず、自分を追いつめることになるかもしれない。両者ともに害を及ぼす、まさしく呪いであるわけだけど、敢えて呪いという言葉が使われるのは、合理的な因果関係でなく無根拠で古い慣習に準拠しているだけなので、その気になればせーの! でぱっと解くことができる可能性がある、からだろう(勿論、実際には容易ではないけれど)。故に、こうした問題を表現する時に「呪い」という言葉が用いられるのは、そんなもんさっさと解こう、という啓蒙的な意図があるからだと思う。古い価値観を押し付ける奴が加害者、という単純な対立構図を避けている、穏健な啓蒙。

さて、こうした呪いを発動し得る価値観の体系によって、批判や強要だけでなく、逆に賞賛や承認を得る可能性だって勿論ある。呪い、に対する、祝福。例えば(そんなことは今迄に一度も無かったが)僕がした何らかの行動が「男らしい!」などと賞賛されて、それを無批判に嬉しく思う可能性はあるだろう。

これをそのまま受け取って自分の糧にしてしまうと、今度は掛け値無しの呪いを食らう可能性もある。なので、理屈で考えると、この祝福はキャンセルする必要がある。この例なら「いや別に男らしくはないですよ、男らしいからやったわけじゃないですよ、そんなの関係ないですよ」等と言って、相手の賞賛を不意にする。それによって別途の違和が相手方に発生し、まあ折角の祝福が、となるけれど、まあ、そうするべき、だと思われます。ですよね。

こうして話を簡単な例でパッケージ化した場合は、わかりやすいのだけれど、実際のものごとはややこしく、管見の限り、祝福をキャンセルする、といった状況はあまり見受けられない。場合によっては後日、良い話の一つとしてコレクションされたりもする。それ、が呪いの裏返しである祝福だと一瞬で見抜くのは容易ではない(一直線に自分を傷つけてくる呪いですらも、それが呪いだと気付くのは難しい)。また仮に見抜いても、やはり祝福を受け取る誘惑を乗り越えてキャンセルすることは至難とも言えるだろう。

あれは確か、大学二回生の春のことじゃった。

芸術大学、の、アートプロデュースなぞ学ぶ学科の或る授業。必須授業だったので一回生の時から出席者の顔ぶれは概ね変わらないが、見知らぬ韓国人留学生がその授業に出席していた。カンさん(仮名)の年齢は我々二回生たちより幾つか上だが、単位取得の関係上、こうして下級生の授業に混じっていた。カンさんは、優秀そうな雰囲気をばりばりと出しており、実際に何らかの活動の成果を僕はその時既に知っていたのかもしれない、また韓国への興味もあって、学生時分の僕はお近づきになりたいなー、などと内心で思っていた。と言っても、その時は、たまたま席が隣り合った時に一度挨拶したくらい。

その日は、あるプロデューサーをゲスト講師に、現在準備中のイベントに即した実務などを話す授業だった。最後にそのプロデューサーは「このイベントの本番当日、手伝ってくれる学生を募集しています。現場を学ぶ良い機会になると思います。希望される学生は後で連絡先を教えてください」と教室から学生ボランティアを募集した。芸大に限らずよくある話、テイよく労働力を無料で学生から確保する、だけでなく一定の入場料まで獲得する、あれ。とは言え当時、僕も学生。「大学は、学ぶところじゃなく機会を作りにいくところ」という先輩の言葉を思い出しつつ、他の十数名に並び連絡先をその人にあずけた。

それから数日後のこと。僕はカンさんに呼び出された。

「この前、授業できた講師の手伝いの件。私が代表として、みんなの連絡先を集約しています。それで、山本君にも手伝って欲しいのだけれど」

こういうのは、まあ、良い話なんでしょう。しょうもないボランティアでも、これを機会に学生間の連絡係代表として振る舞い、またカンさんとも仕事をともにして、何か次の機会に繋がるかもしれない。しかし何故、僕に声がかかったのか。一度挨拶しただけだけど、あの授業に同世代はいなかったのだから僕が数少ない言葉を交わした一人だったからかもしれない。また当時、騒がしい学生たちの中で僕は前の席で大人しく授業を聞いていたので、真面目だと思われたかもしれない。

「大学は、学ぶところじゃなく機会を作りにいくところ」という言葉が再びよぎりつつ。しかし、僕は、その場でカンさんを怒り、拒否し、そのボランティアからも抜けた。まさか断られると思っていなかったであろうカンさんは呆然としていた。その後、プロデューサーにも直接電話して怒ったりした。

何故か。連絡先はそもそもプロデューサーに直接あずけたので、先ずはそこからの連絡を待っている状態だった。それが知らぬ間に同じ学生のカンさんが代表者として選ばれ、またカンさんによって僕が選ばれ、みんなの連絡先が勝手に流出している。誰かが代表してまとめる必要があるにしても、それを皆の周知と合意を得ぬまま決まるのはおかしい。

そもそも何故、カンさんが最初に代表となったのだろうか……その雰囲気や必然性、は何となくわかるにしても。あの授業に於いては我々と同じ、多くの学生の内の一人でしかなかったはず。たまたま単発で来たゲスト講師が、実際にはどういう経緯で、カンさんを選んだのか?

さて、このイベントですが、顛末を見届けるため僕は一般客として行った。ただ一応正体を隠すためと抗議の意を込め、おかめをつけてほっかむりに白衣という奇装で、客席後方にふんぞりかえる。

動きやすい服装で、と指示があった同期の学生ボランティアたちは、後日聞いたところ、多数の客席用椅子を並べるなど現場ならではの仕事で経験を積み、しかし椅子不足のため本番中は舞台前の空間で集団三角座りをしていた。

ちなみに、イベント自体はなかなか面白かった、です。海外を含む現代音楽家三名が、実演し、レクチャーもする。最後、不思議な糸電話状の創作楽器を演奏するため、アーティストの他にアシスタントが一人、楽器の片方を手に取る。そのアシスタントは、舞台向けの衣装に身を包んだカンさんだった。

アーティストの祝福を受け、会場を代表して楽器を受け取るカンさんは、その祝福のごく一部を、僕にもお裾分けしてくれようとしたのだろう。しかし、僕はそれをキャンセルした。カンさんが得た祝福の正当性は僕にはわからないが、それをそのまま受け取った(承諾無く全員の連絡先を掴んだ)のはやはり間違いだった、と今でも思う。

以上、あってきたるや、という話でした。……なのだけれど。ただ最近、少し心境は変わった。祝福、それもまた良いでしょう。と言うか、それらが適切かどうかを判断していったところで、得られるのはただの「公正さ」でしかない。それも得られることならば万々歳だけれど、現実的には身の回りの瑣末な些事を切り分けていくだけで、つまらない自己満足と諍いしかそこに残らない。それこそが僕にかけられた(自分でかけた)呪いかもしれない。とは言え、変わったのは目端の心境のみで、考え方が変わったわけではない。あの時はそうするしかなかったし、今でも別に後悔はしていない。けれど最近、祝福について考える際、この話を思い出した、ので。