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ダムタイプ神話

これ↓に行って来ました。

「ダンス×アート コンテンポラリーダンスの源流を探る ダムタイ – 中西理の下北沢通信(旧・大阪日記)

山中透氏のコメントを聞きながら、「pH」「OR」「S/N」を流し見る。

冒頭に、「とかく神話化されがちなダムタイプを再評価する」みたいな趣旨のひとつが語られたように記憶するけど、それ前もどっかで聞いたことあっぞ。これだ。

4月18日(日) 19:30~ 『S/N』から語るアートと社会~わたしたちをつなぎあわせるプラクティス~

権利関係でソフト化が難しいかわりに、上映会はしばしば行われている様子。で、最近は「神話化されがちなので~」といった前説がよくあるらしい。ダムタイプの(元)メンバーも自身もそんな風に言ってるよ?みたいなこと、↑の上映会では矢鱈と強調されていた。

でも、映像見る度、もうこれ神話でよくないですか、と思う。無理矢理故事つけて神話「化」されてるのでなく、単に神話(神様の話ではないけど、すんごいって意味で)であるだけで。

メンバーが当時の苦労話や内輪話を披露したところで、その神話が強調されこそすれ解体はされない。まあ、それでいいかと。

滅茶格好良いですもんねー。更にこれが20年ぐらい前、ってことを考えたらば。

「神話解体」し得る要素があるとすれば(ほんと解体しなくていいけど)、何故、これこれらが「格好良い」のか。まあ「Dumb(=言語能力を失った、口のきけない、無口な、ばかな、まぬけな)とType(=型、 類型、タイプ)から成る造語Dumb Type」(wikipedia引用)なので、言語化するのが野暮なのだろうけれど。

これは僕にとっては、例えば「煙草は何故格好良いのか。特にライターで火をつける瞬間」とか「襟をたてると何故、ハードボイルド映画の主人公みたいになるのか」みたいな領域と一緒。

というか、多くのアート(それも比較的良質な)には、この問題がある。作品を、物語や、モチーフとなる社会的な問題意識、用いられている独特の技法、などから言語化することは取り急ぎできる。だが、そこでは語られない、ぱっと見のあの各種格好良さ。これは何だろう。

逆にその格好良ささえあれば「物語や、モチーフとなる社会的な問題意識、用いられている独特の技法」云々は無くても別によかったり。

映画に出てくる襟を立てたハードボイルドな主人公は格好良い。だが、それを観て、襟を立てて映画館から出てくる兄ちゃんは果たして格好良いのか。いや別にいいのか。

神話云々であるなら、この謎の襟について考える必要がある。でもそれは……本当に謎だ。

(まあ襟に関しては色々考えられますが)

今回、その点でヒントになっていたのは、古橋悌二が漬かっていたクラブカルチャー。映画。また、その方面のトレンドを、どんどん取り込んでいく、のを良しとしていた事(後に、トレンドはもう追わなくていい、という風になる事。トレンドがかつて面白かった時と、そうではない今)。

ああ、しかし、これもよくあるなー。ダムタイプのような、それ自体は「大衆的」でない、ハイな、作品の源泉は、むしろ大衆的なカルチャーである点。この場合は、クラブカルチャー、映画ってな按配だが、今これからは、コミック、アニメーション、ゲームとなるのだろうか。

素人疑問だが、何故、大衆的カルチャーを源泉にしてハイなのができるのだろう。言い換えれば、何故、主な大衆的カルチャーの需要層である多くの大衆が、ハイなのを作ら(れ)ないのだろう。

ふうむ。