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大丈夫。シナ通の攻略本だよ。 / 上海游記 一

先日、上海へ行って来た。ただの家族旅行だが折角大枚をはたいて行ってきたので、旅行記でも書こうと思ったけれど、果たしてそんなもの誰が読むのかと思い、書きあぐねる。奥地や秘境でなく飛行機で直行三時間弱、隣国の大都市、上海。日本人の最もメジャーな渡航先の一つとして、本屋に行けばガイドブックは幾らでもあるし、同じく検索すれば旅行記も多数出てくる。上海のことなど、僕が何か言うまでもなく、すぐに知れる、みんなもう知ってる。或は、そもそも、みんな上海くらい疾っくに行ったことあるのではないか。「上海行ってきてーん! こんなのあって楽しかったよー!」と喜んで旅行記を書こうものなら「あらそう……良かったねえ」と、今更こいつは何を言っているのかと、そんな程度で楽しんでいるのかと、哀れ呆れられ飽きられるのではないか……という被害妄想。

と言うか僕自身が、他者の旅行記は勿論、そもそも海外旅行自体あまり興味がない。元より花鳥風月玉姫殿の類を愛でるような感性無く、自身の日常生活を伴わないまま名所の表象を眺めてたところでしれたこと。名所絵葉書の実地確認と複製作業。こうしたイメージ通りの「観光」に良い印象を持たないし、その程度で得られる経験を殊更に異文化に触れるといって大事にしたくもない。まあ、別に旅行も異文化も悪くはないが、それよりも他に大切なことがごく身近にあるだろう(盆踊りとかね。この旅行で行けなかった櫓も多数)。

韓国の釜山には何度も行っているし又行きたいけれど、これは両親の故郷であり、今でも親戚が住んでいるためで、単に田舎に帰る、帰るのが楽しみ、ということに過ぎない。中国には数年前、山東省の煙台へ行ったが、これも祖父の本籍ということで、一応自分とかろうじて結びつく、旅先への根拠はあった。今回の行き先、上海には何の縁も無い。行く理由がない。中国の古い文化には興味があるけれど、それならば、共産党指導下その文化を革命し、急激に都市化する現在の中華人民共和国ではなく、台湾や香港に求めるべきだろう。

しかし、ともあれ、上海に行く、ということは決定されたので、折角だから無駄にならぬよう、自分と全く無縁の上海を結びつける何かは無いか、と旅行前は探していた(別に、理由なく楽しめばいいんですけどね。貧乏性故)。そして、ふと思い出したのが、半年くらい前に実家で拾い読みした一冊の本だった。探すまでもなく、既に上海に関する本を偶々読んでいた……それを端緒に、上海へのただならぬ関心事を、大別して三つ見つけることができた(「広場舞」についてはまた別として)。なので、日程に沿った旅行記ではなく、この三つに即し三回に渡り作文する。本稿はその一。


半年程前のこと。姉の残した「ベルサイユのばら」も読み終えて、いよいよ実家で暇を潰す本が無くなった。そこで漫画から目を転じ、父の書棚を漁ることにした。父が読書する姿はあまり想像できないが、一応料理人なので昔から料理書が少数ながら並んでいる。自宅でラーメン屋を開く際に参考にした業者向けの本などは、全国各店売筋のラーメンなど写真も多く、空腹を慰めるのにも良いし、約二十年前と今では流行が違うので眺めていて楽しい。そうした大判薄手カラーの本の他に、函入りで重厚な装丁の四六版も数冊並んでいた。即ち「中国料理技術選集」(柴田書店,1982年)である。巻末に曰く中国料理技術書選集は、中国料理の技術の向上を主題にして、柴田書店の書籍のなかから厳選された二六巻二九冊の特選セットを提供するものである。家にあるのはその内の数冊程度で、いづれも戦前の本を復刊したものだった。

その一冊の題が「支那風俗」。果たしてこれが、その著者である井上紅梅(1881-1949?)と最初の出会いとなった。が、この時は著者のことが気にかかりつつも、先ずは中身の面白さに夢中になった。復刻版は全一巻だが、元の書籍「支那風俗」(上海日本堂,1921年)は上中下の三巻であり、更にその元となるのは不定期刊行雑誌「支那風俗」である(雑誌といっても後に紅梅自身が「ひとり雑誌」と語るように、ほぼ井上紅梅が記事を書いている)。従って柴田書店の復刻版は、その凝縮のまた凝縮ということになる。前述した題目に「中国料理の技術の向上」とあるが、本書は料理それ自体にのみ即したものではなく、書名の料理以外の中国民衆文化についての章も多い。専門料理書と言えないが、租界時代の上海における貴重な実録ということで、他の実用的な技術書に連なり選ばれたのだろう。

本書所載の一章「上海料理屋評判記」は、上海租界時代の所謂「食べログ」。と言っても、地図も写真も無く、前半は座談形式、後半は料理の列挙とひたすらテキストが続くのみで、なかなか情報を通覧しにくい。けれど、

上海の寧波館はうまくもまづくもない所謂あたりまへの支那料理を食はせられる處で価格も総体に安い。本来この料理は海の物を得意としているのであるが、福建ような技巧はない。(中略)大宴会には前廳後廳等の廣い席があるから好くこの菜館が利用されるが、そういふ時にはいつも買辦や西嵬のコンミツシヨンを食はせられるようなものでいやもう閉口閉口。

といった文章は如何にも食べログっぽい……ということで、いつか何ぞの話のネタにしよう、と思っていたままスッカリ忘れていた……ところを、自分が実際に上海へ行くことになり、そうだそうだと電撃的に思い出した。早速、井上紅梅について改めて調べたが、これが滅茶苦茶面白い。面白いと言うか、さっき初めて知った人なのに、今迄ずっと探し求めていた人のような。そんな感覚はとても久しぶり。

絵葉書蒐集家には御馴染みなれどその生涯は長らく謎だった探検家菅野力夫(1887-1963)や、大阪の竹久夢路といわれた波屋書店の画家宇崎スミカズ(1889-1954)など、大正から昭和初期にかけてユニークな活躍しつつも、現代の世間一般には忘れ去られた人は多い。井上紅梅もそうした一人といえる(この時点でもう魅力的)。忘れ去られたといっても(菅野や宇崎も同じく)斯界の中国史学者間では有名人物で、1970年代では三石善吉が雑誌で紹介したり、比較的最近では勝山稔が詳細な研究によってこれまで不明なが多かった井上紅梅の生涯を膨大な資料によって明らかにした。更に相田洋が近著でその成果を引きつつ検討もしている。そうした学者の他に、麻雀好きにも名前を知られている。日本語の文献で初めて麻雀(もーちやあ)を紹介したのがこの「支那風俗」だからだ(これは柴田書店の復刊版には収録されていない)。

井上紅梅を敢えて一言で紹介するなら「シナ通」となる。文字通り「中国に詳しい人」の意であるが、この時代では様々なニュアンスを背負っていた。勝山論文の註から引用する。

「シナ通」は中国語を解し中国社会に精通した中国愛好者を指し、大正時代から昭和戦前期に活躍したが、その視野の狭さから趣味人の範疇から脱却できず「安易な中国紹介のゆえに、のちのちまで軽蔑のマナコで見られるようになった。」 (三石氏「後藤朝太郎と井上紅梅」)という見解が一般化した。

勝山稔「改造社版『魯迅全集』をめぐる井上紅梅の評価について」

先ず、そもそも「シナ」が趣味愛好探求の一つの対象、ジャンル足り得ることであったのが面白い。古来より隣国として長い間、交易やら戦争やら(歴史に疎いのでよくわかりませんけれど)そもそも漢字、ということでそれなりに中国のことを知っていた、イメージはできていた、と思うのだけれど、こうして一般人まで行き来し居住もするようになり、初めてそれが一つの、未知なるも解き明かすべき大きな「系」として現れたのか。何となく想像できるような、今では実感しようがないような、むずがゆい感覚。まあ現代においても、急速に発展する中国の事情を紹介する人は重宝されている。例えば近年中国に関する多数の著作で注目を浴びているノンフィクションライターの安田峰俊氏は、現代の「シナ通」と言えるかもしれない。

が、そうした大いなる「系」の前に「シナ通」が蔑称へと転じる。怪しさ、胡散臭さ、軽薄さ。「あいつは所謂シナ通だ。言っていることは信用できない」といった風の言い回しがあったらしい。ひとつの国や都市に対し、学者でも政治家でも文学者でもない、ましてジャーナリストでもない、ただの趣味人として表層の華やかで美味しそうなところばかりを象る……しかし、そうした態度こそ魅力的に感じるし、共感するものがある……それは僭越ながらというべきか、或は自虐になるのか。

しかし、井上紅梅はただ底の浅い「シナ通」では収まらない。支那の五大道楽(吃、喝、嫖、賭、戯。所謂「飲む打つ買う」+観劇)を巡って放蕩する一方、まだ日本の文壇で魯迅がそれほど知られていなかった頃に、一挙26篇を翻訳・収録した「魯迅全集」(改造社)を出版した(現在「青空文庫」に収録されている魯迅の小説は全てこの紅梅訳)。他にも多くの中国文学(白話小説)を早い時期に翻訳し、日本に紹介している。ただ、この「魯迅全集」の翻訳出来について、当の魯迅から酷評を受けたことが井上紅梅の現在に至る評価を決定付けてしまった。「シナ通」というレッテルの悲劇。そこで勝山は紅梅訳を精査してその翻訳水準を再評価し、魯迅の酷評は必ずしも妥当ではなく別の事情もあったのだろうと前出の論文で結論づけた。が、相田によると、やはり紅梅は「シナ通」故に魯迅に嫌われたのだろうと見ている。

現在、井上紅梅の本は一般の書店には流通していない(魯迅の翻訳はあるかも)。著作権継承者がいない。Amazonでは電子書籍で代表著作の一つ「酒・阿片・麻雀」(萬里閣書房,1930年)が販売されているが、これは国会図書館のデジタルライブラリーを元にKindle形式にしたもの。販売者は副題に「井上紅梅の中国嫁日記」とつけている。流行り文句を勝手に副題とするのは関心しないが、言い得て妙なのは確か(奇しくも両井上)。この本は、井上紅梅が(支那風俗の研究の為に!)中国で結婚した女性との南京での家庭生活を綴ったものである(正式には結婚していないのだけど)。上海では郊外に宿を取ったため、毎日地下鉄二号線に長時間乗る必要があったが、ずっとこれを読んでいた(電子書籍を読み切ったのは殆ど初めて。タブレット買って良かった)。随筆や紹介記事というより、私小説の趣き。登場人物のせりふは日本語に訳されつつも要所で中国語がそのまま交じり(この体裁も好み)、章末ごとに語註として解説される。中でも最も印象に残った、「魂の置き去り」という章の一節を次に転載する。紅梅宅ご近所の話。

 三人の子供の外に最近又一人子供が出来た。それは二番目の娘だから二姑娘(あるくーにやん)とよばれた。二姑娘はひよわい質で夜鳴きばかりしてゐる。それにときどき引きつけることがある。夫婦は心配して夜更けに起きた。

二姑娘回來家來阿(あるくーにやんほゑらいちやーらいおー)

と遠くの方で蚊の鳴くような聲がする。

來家阿(らいちやーおー)

と又聞こえる。そうしてだんだん近寄って來る。

子供の病気は魂の置き去りだと言ってゐる。そこで嬶どんは魂のありさうな所へ行つて、子供の着物と靴を竹竿に懸けて持ち、おやぢやは提灯下げて、白米、茶の葉など沿道に撒きつつ一呼一鷹して帰る。

「回來家來阿」は「帰っておいで」、それに続く「來家阿」は「帰って来ましたよ」の意で、親が娘の魂に代わって答える。夜更けに父母が二人、服を竹竿に吊るし、声をかけながら米と茶を道に撒いて歩く様子は、まるで昔観た映画「霊/幽幻道士」の世界そのままだが(そのままの世界なんだけど)、両親はその後、娘の魂を無事見つけられたのか、これについては語られない。

既に新刊流通はしていないが、うみうし社という謎の出版社が「中華萬華鏡」(改造社,1938年)を1993年に復刊している。編集発行者としての前口上はなく、復刊の意図は不明。「中華萬華鏡」自体も、井上が各所で既に書いたものを若干補足して再録したもの。だが、それだけに読みやすい(うみうし社は他に「ジェルヴェ医官中華帝国に在り」という謎の本を出版しており、これも面白そう。そして、この2冊しか発行していない模様)。


井上紅梅の知られざる多様な業績を、僕がこれ以上紹介するのは荷が重い。なので、最早蛇足ではあるが、当方の実旅行記へと無理矢理結びつけていこう。「上海料理屋評判記」他に頻出する繁華街通り、四馬路(すもろ)へ。上海の中心部、人民公園の中心辺りから東へ伸びる道で、本来の名前は福州路という(この辺りの事情も支那風俗の一章「街の替え名」に書かれている)。特に意識せずとも普通に観光していれば自然に通りかかる。現在は書店と文房具屋(の関連か、何故かトロフィー屋が多数あった。問屋に相当するのかもしれない)が密集している。上海最大(多分)の書店、上海書城もここに位置する。

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四馬路(福州路)

この近辺は観光名所である南京路をはじめ、当時の建築が多く残っているが、四馬路に関しては再開発が進んだのか、それほど面影がない。かつてここには多くの茶館が軒を連ねていたという。その代表が青蓮閣

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青蓮閣

百度を駆使して調べるに、現在の外文書店がその所在地だという。外文書店は文字通り外国書籍を扱う書店ビルで、日本のアニメイトなども入居している。

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外文書店

青蓮閣は、複数あった有名な茶館の中で、とりわけ規模が大きいわけではなかったようだが、立地と古さで四馬路の顔となった。最も紅梅によれば余りに有名な茶館故田舎者の行く處で氣の利いた支那人はこんな處へ近寄らぬと書いている。百年前から既に観光客しかいかない観光地みたいな所があり、そうしたところへ百年経っても観光しに行くのだからなんともはや(そういうことは上海で何度もあった)。

かつてこうした茶館には多くの人が集まった。……というと、そりゃそうだろう、現在でも「カフェ」は単にコーヒーを飲んで帰るところではなく、人が集まるコミュニティの場所……と思うが、当時上海の茶館にはもう少し広い意味があったようだ。先ず朝方は取り敢えず一服して時節の情報を得る新聞代わりの場所であり、昼は商談の場所(単に業者間の取引に使われるだけでなく、耳を澄ませて商機を探すという場所でもあった)、夜は野鶏と呼ばれる下層の娼婦たちがそれを求める客と逢う場所、と広い役割を担っていた。当時の中国では自宅に人を招くということはあまりないみたいで、ちょっとした応対にも茶館は欠かせなかったという。現在に置き換えると、何の店に相当というより、幅広い役割を考えるとインターネットそれ自体(と接続端末)のようでもある。

茶館の壁面にはメニューの他に、当局による「禁止講茶」という貼紙があったという。「講茶」とは、「講和」からイメージしやすいが「喧嘩する人同士、一緒にお茶を飲んで、仲直りする」という意味である。それを禁止どころか、茶館としてはどんどん仲直りに当店をご利用ください、と推奨したい立場ではないか。しかしこの講茶というのは建前で、逆に喧嘩を広げ決着をつけるのがその実態。街頭で喧嘩が発生した際、あすこで話をつけようと、自分の仲間が多く常駐している茶館へ連れていき、多勢に頼って決着をつける。又は仲間がおらずとも、道理を衆目に訴え世論を味方にして決着させる、という意図も人によってはあったようだ。こうした利用も考えると、やはり茶館に相当する場所は現在に無く、インターネットが近いように思う。楽しそうな場所ですね。

……と、色々書いたが、全て紅梅とその研究者の書籍より引いたもの。次々と中国民衆文化のあらましを披瀝する紅梅自身も、非常に博識に見えるが、実際は専門家からの聞き書きと、紹介という名目での漢籍をそのまま翻訳、という性質も強い。勿論、それも見識の一つであるし、何よりそのセンスがよく、現代から見返せば恐ろしく先見性があった(中国文学の受容史を専門にしている学者にとっては特に)。(巷間に現れる王朝の滅亡に関する予言。童謡が有名だが、他に骨牌という中国版ドミノの遊戯法に現れるものが紹介されている)の話、海底問答(中国の秘密結社青幇の構成員が、旅先の土地で仲間を探るための、符牒による問答。先ず茶館にて茶碗の蓋を碗の側面に寄せ掛けておき、土地の構成員から見つかるのを待つ。少年サンデーの古い漫画「拳児」(原作・松田隆智,作画・藤原芳秀)にも描かれていることで有名)の話など、まだまだ拾い読みしかしていなくて、紅梅について調べるのは帰国後の今が本腰。楽しみ。

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紅梅の写真は殆ど残っていない。これは「支那風俗」の扉にある著者像(石井柏亭画)。この如何にもディレッタントな佇まい、格好良ー!

※ 「シナ通」の表記は相田洋の著作に準じた。