暑い。薄着をしても、数歩で汗まみれになる。少しでも涼しくしようとした薄着に、汗が染み渡りきる。自分でもはっきりと自身の悪臭が感じ取られる。他人からすれば尚更だろう。たまらず服を脱ぐが、これ以上は脱げないことに気付く。まとわりつくぶよぶよした肌色の何かを懸命に探っても、継ぎ目はない……。
この季節(この作文は夏に書き始めた)に限らないが今は特に……この身体が忌々しい。身体というのは厄介なもの。曲げれば折れるし、刺されば血も出る。この辺の事情は誰もが等しく抱えるとしても、僕の身体は特にひどい。平均に比して、重く、大きく、また醜い。図体だけは大きいが、かといって腕力はなく、脚力も耐久力もない。息は臭いし、少し興奮しただけで声は甲高くなり、鼻息も荒くなる。時所構わず普通にうんこは漏れるし、小便も垂れる。髪は後退しつつあるくせに、鼻毛は伸びるのが早い。
この、百キロに及ばんとする重荷を、文字通り肌身離さず背負わねばならない。ちょっと今日一日だけはシッターにでも預けて身軽にお出かけする、なんてこともできない。子泣き爺の如く張り付いて決して離れない。泣きたいのはこちらの方だというのに。
せいぜいできることは、布類で身体を包み隠す程度だが、それも却って滑稽さを強調するばかり。
こんな状況で正気を保ちながら生きていくとしたら、この思想に頼るしか無い。即ち「心身二元論」。心と体は対をなすも、それ故に別物。ハードとソフトの関係。体の大切さを認めつつも、今や大自然の脅威を生き抜くことが全ての原始時代に非ず、有史以降、大切なのは心の方。それに体は生まれによるところ多く、つまり運、本人の性質に関係ない。人権的な観点からも、身体に価値観を重く置いてはならない。
つまるところ、人間、外見より中身が大切。
児童文学の名作「新ちゃんが泣いた」のラストシーンで、四肢性マヒの新ちゃんは喝破する。「健全でない肉体にだって健全な精神は宿る」と。小学生の頃……そも「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言い回しを知る前……にこれを読んで感動した。各種教科書に載る偉人たちの写真から、比較的醜い人を探し出して集め、傍証とする学生時代。
………勿論、この一連のオチとしては「そんな精神もまた、身体における作用の一部分でしかなかったのです」が用意されている。心身一元論。精神は肉体の電気信号に過ぎず、時に疲労し、患い、薬にだって影響される。
父が腎臓病を患ってから怒りっぽくなったのは、中学生の頃、衝撃だった。父が怒る時は、一応、相応の理由や筋がある、と思っていたからだ。そうでなければ不条理だ。しかし、父は身体の病を理由に、怒りを向けた。如何に身体を患おうと、精神は無関係なはずなのに。
いや……病や障害の例は出さずとも、己の出張った腹を見よ。それは生まれつきの不幸ではなく、不摂生の所以、精神の怠惰に他ならない。精神の純然たる所産だという、身体から切り離され偽り容易な作品や作文……そんなものを見るよりも、あなた自身の身体を眺めた方が、むしろあなたの精神がどのようなものか、よくわかる。僕がどんな人間か、身体を見れば精神ごと明らかだ。
が、本稿では今少し、こうした幾つかの葛藤を内容しつつも、心身二元論を保留にしたまま話を進める。精神と身体は影響しあうけれど別物で、身体も大事だろうけれど、精神がより大事だということ。精神は自由で「大事にできる」ということ………
さて「妖精」について、だ。しかし、妖精について語ることは難しいので、似て非なる「アイドル」について先ず考えてみる。アイドルを妖精と形容するアイドルファンもいるだろうから。
しかし、このご時世、アイドルについての論は山程あろうし、そも僕はアイドルに興味なく知識もない。アイドルに興味ないのは「心身二元論」において、身体を前面にすることは邪道だから、と昔から考えていたからだけれど……まあより大切なのは精神であっても、肉体も良ければそれに超したことはない。アイドルも多いに結構。
「身体を売り物にする」なんて言ったらアイドルやアイドルファンは怒るだろうか。それはまた別のことで、アイドルは、勿論、美しい/可愛いけれど、それだけでは駄目で、歌や踊りや語り、といった何だか呪いめいた技術とあわせて初めてアイドル足り得る……かは知らないけれど、最近はそれに加えてそれぞれの背負った物語、なんかも併せ持つ。それは多分に精神的存在でもあるだろう。「アイドルうんちしない」というように、身体の生々しさは「無かったこと」にする。またアイドルにとって「恋愛」がスキャンダルになりうる。アイドルファンは、肉体に堕さないその精神のみを愛している。
しかしまあ……それは寧ろ「心身二元論」を前提にした後ろめたさから、精神の有り様を問題にしているだけで、アイドルが精神よりも身体的な存在として出発し/優先されることは間違いない。
美しい身体の、精神の有り様が問題となるのがアイドルだ。
一方、結論からいえば「妖精」は、精神の問題に始まり、精神の問題に終わる。身体に関する議論を不可としつつ……しかし言語化してはならないレベルで、身体が問題になってくる。
イギリスの児童書に「レインボーマジック」というシリーズがある。日本では新刊乱発で有名だったゴマブックスが翻訳・発行していた。読んだことないけれど、各巻のタイトルが「赤の妖精ルビー」「オレンジの妖精アンバー」と色の妖精に始まり、「ケーキの妖精チェリー」「お洋服の妖精フィービー」「月曜日の妖精ミーガン」……とどうも本家では150巻ぐらい発行されているらしい。「ディスコの妖精」「乗馬の妖精」なんてのもある。
このシリーズ「~の妖精」を見る通り……妖精とは、自然現象であれ人工的な概念であれ、その、特定の何らかの「象徴」として生まれる。ただの妖精、はいない。例え小さくて羽が生えていても、ただ生きて、摂取し排泄し交配し、またそのために社会を形成して、時に居酒屋で愚痴をもらす……そんな生物は妖精とはいえない。「精神的な領域が凝縮して、人の形をとったもの」。妖精は我々人間にもささやきかける……交流可能な点において「人」と同じなのだが、人ではない。これが妖精の第一条件だ。
そして、その第一条件だけで充分、妖精なのだが。しかし暗黙の第二条件がある。条件といっても、そもそも実際には存在しない架空の妖精について、条件も何も無いのだけれど。先述したような「何も象徴しない妖精」がいてもいいのだけれど。各種の物語や図像から、多く共有されている「妖精」として、の第二条件。
それは、例えば可憐であること。或は、優れた、美しい身体を持っていること。現実の身体とは本来切って離せない生々しさがないこと。
恐らく一般的に、漠然と抱かれている「妖精」のイメージで、妖精が醜いことはない。ただ確かに、その可憐さ、については一概に言えない。そも、美的なイメージは千差万別だ。ただ、共通して「生々しさ」はない。頬に痣のある妖精はあまり想像されない。
以上、わかりやすくいえば、妖精の「精」は、精製された精神であり、妖精の「妖」は、ただならぬ美しさや可憐さ即ち妖しさ、を表す。
水の妖精が、例えば蛇口からふわりと舞って出てくることはあろう。その時、何を話すだろうか。「水は大切に使ってくださいね」「はい、わかりました」とか……? まあ多分、水の話になると思う。水の妖精だから。しかし「水の妖精さんって、滅茶可愛いですね」という話にはならない、できない。まあ、これは妖精でなくても、相手が普通の人でもそうだけれど。ただ、普通の人相手に「可愛いですね」は、かろうじて会話としては成り立つかもしれないけど、水の妖精にそう言ったとしても「?」となるに違いない。「いやそこは重要ではない」どころか、全く意味を為さない問いだ。
勿論、妖精は現実には存在しないので、厳密に言うと色々矛盾もある。水の妖精がかろうじて話しそうな人語「水は大切に使ってくださいね」の、水、はともかくとして、大切、使って、ください、は、に、ね、といった各種品詞。その精神から発せられる言葉は、全て自身の「水」のために向けられる。が、言葉自体は、水、とは関係ない、他で使える不純なもの。水の妖精がいたとしても、言葉なる不純物は使えないはず……そも、人の形……身体を纏って現れることが根底的に間違っている。「美しい身体」という妖精に許された領域も、それを構成する各器官、例えば目、髪、胸等……はそも美しい身体のために存在するのではなく多目的な不純物だ。水は、水。
斯くて妖精は、フィクションとしても危うい存在だ。その存在を、合理的に説明しきれない。
しかし、稀に、現実の社会に、実在の人間の中に、妖精の如き人がいる。
フィクションでも危ういはずの妖精が人間として、目前に降臨することがある。ここからが本題だ。
「その人」のことを考えるに、その精神を語るより他は無い……のに、ただならぬ妖しい身体を纏う人が。いるでしょう、稀だけど、わりといる。その鋭利な精神に、そもそも身体なんて生々しいものは追いつかないぐらいのはずなのに、追い越しちゃっている人が。単に、美しい、可憐、だというわけではなく、身体の持つ生々しさを何処かに置いてきたような(妖精が話す言葉のように、身体であることが、生々しさを逃れ得ないのに)。
勿論、そんな人の存在は旧来の心身二元論に頼る僕の心を掻き乱す。それこそ、できることなら、人は身体と精神の美徳を足せば誰もが同じ(つまり、醜い人は心が清く、美しい人は心が醜い、そのどちらかの間で公平)として欲しいところを、何とか妥協して、身体の美徳も認めつつ、大切なのは精神よ身体も大切だけど、と不公平をも受け入れる大人らしい折り合いまでつけてきたのに。究極の精神には、妖しき身体までが付随する、精神を身体が裏付けて祝福する、なんてこと。醜い僕がどうして受け入れられようか。
これは、心身両方優れた人が羨ましい、という問題ではない。なかなかその違いを言葉にすることが難しい。ことは「心身は一元で、健全な肉体に健全な精神が宿ったね、すごいね」とは違う。二元論のまま、その精神だけが特化していることが間違いないのに、全く別の概念から身体がそこに降り立ってしまった……。
一昨年観た木村栄文のドキュメンタリー2作品「飛べやオガチ」「いまは冬」。この両作品に登場する、前田健一と江口榛一の両老人も、正に妖精的な佇まいを持つ。この場合「仙人」というべきか。前田は「人力飛行」に、江口は「地の塩の箱運動」に、その精神を鋭利に特化させ、捧げたが、この両老人の持つ妖しい身体は、その精神に沿っている。
(この作文は余所見の原則通り、ちゃんと作品評でございます)
また、江口の妻(撮影期間中に亡くなる)と娘二人(次女は既に自殺している)は、ほんの僅かな間しかカメラに映らないが、この三人の女性も現世の人とは思えぬ凄まじいオーラを放っている。
撮る対象がそもそもすごいのだけれど、木村栄文は、かなりその妖しい身体を(いささか、過剰に、ともすれば悪い意味で)捉えようとしている感がある。映像のこと、わからないので「そのように撮る」ことが意図的に可能かわからないのだけれど(前田健一が自宅で金太郎みたいな前掛けをしている姿、そういうのをわざわざ撮っている)。ドキュメンタリー監督として、その人の精神を撮る、ではなく、妖精としての身体を撮っている。
僕が観た他の作品では、「鳳仙花 ~近く遥かな歌声~」では芥川賞作家の李恢成、「記者それぞれの夏 ~紙面に映す日米戦争~」では活字を拾うアメリカで日本人向け新聞を発行する社主、また再び「いまは冬」では三里塚の若い活動家、たちが極めて妖しい。
そういえば木村栄文自身もまた、映像にしばしば登場するが、なかなかの妖精っぷり。
妖精論といっても、論ではなく、ただのオカルト。妖精なる現象の必然性を説明することは一切できない。ただ、現実に存在している。木村栄文という公共を持ってきたが、もっと他にも、身近に、或は著名に、いる。妖精は、わざわざこうして文章にするまでもなく、概念としてはよく普及している。この作文は「自明を敢えて言葉にする」の類になる。
誰もが心の中に自分の「二・三次元物件リスト」を持っているように、「妖精図鑑」も持っているだろう。しかし、前者と違ってこれは共有し得ない。口にすれば、指をさせば、妖精は遠のく。こうした作文を書くだけでも本当は駄目なのだ。
※ オチが思いつかないまま下書きから数年が経過しましたので、このまま掲載。