自分で何か考えたり、或は他人と議論したりするときに「差異」と「同一」の概念を駆使することがよくある。
「それとこれとは全く違うこと」というのが差異で、「それとこれとは全く一緒のこと」が同一だ(ですよね?)。差異も同一も、普通はそこにただ認められるだけ、なのだけれど、考えごと次第によっては「差異である」「同一である」という見地が、時に思考や議論を大幅に加速させる。
その加速度の高さ故、特に議論においては事故も起こりやすい。そもそも「差異である」という意見は同一に対して反旗を翻すわけだし、「同一である」という意見は差異に対する通り魔なわけだ。
当たり前のことつらつらと書いているけれど、そもそもそういうことあるよね、とただ認識することによって、事故を減らそう、という目論見(余所見じゃないな)。
差異。これはよくある。同一よりも差異を見出す方が寧ろ思考として一般的か。多分、昔々は、ぼけーっと世界があって、全てが同一であったろう。ある日、太陽と月は違う、肉と麦は違う、自分と他人は違う、と次々と差異を見出していった、のだろう。差異を発見することは、思考のごく基本的なところであり、そして実際、全てに差異はある。
同一。差異の方が話としては多いかもしれないが、同一もまた重要だ。同一性を見出せば、参照できる事例が広がる。差異に拘り複雑化して袋小路、こういう時「同一」を見出すことが光明になる。どんなものにも差異を見出せるからこそ「同一」もまた知的でもあり勇気である。
例えば、おにぎり、と、おむすび、がある。おにぎりとおむすびは違うよ、三角なのがおにぎりで、地域によっても呼び名が云々。これが差異で、そういう議論はまあ楽しい。でも、おにぎりのことをおむすびと呼んだ人に対し「それは違う!」と非難するようになると、まあまあ、おにぎりもおむすびも、あれのことでしょ、となる。
芸術作品の批評はどうか。このタッチが、他と較べて実はちょっと違うわけでしょ、それが良いんだよ深いんだよ、てな具合で、こちらも差異が大活躍する。一方で、批評は先行作品との関連性を指摘していくわけだから、同一も大活躍。この作品の構造は、古典的な作品と実は同じである云々。むしろこっちが学術的だし、スリリングかもしれない。
どちらが良いことか、は勿論、状況によって異なる……だけでなく、困ったことに同じ状況下で同じ対象でも(そして時には同じ人でも)「そこに(敢えて)差異/同一を認める」ことがあり得る。
なので、あんまり差異をもって同一をけなし、同一をもって差異をけなす、ということはやめた方がいいですよね。自分の好きなことや詳しいことには幾らでも差異を見出せるし、そうでなければ同じに見える。そういうは個人差に過ぎないし、同じ人にとっても、どれだけ目を凝らすか、ぼやかせるか、のこと。バランスの問題とも似ている。
でも現状、差異と同一の判定を自らの拠点として議論を進めるパターンが多いように思います。
「言葉の暴力」という言い回しがある。言葉、の、暴力。それは、言葉の中では暴力に位置する、ということなのか、暴力そのものになった言葉なのか。
例えば、酷い悪口を言って、言われた人や回りの人が「それは言葉の暴力だ!」と非難する。それは、言葉の中でも特に酷いこといって傷つけたよ、ということなのか、本当にぶん殴られるのと同じダメージを与えたのか。
……「ぶん殴られるのと同じダメージを与えたのだ。 言葉の暴力を用いるってのはそういうことだ」……それは、ホントのホントに拳でぶん殴られるあの暴力と「同一」なのか。血が滲み、目が眩む、そして何より「痛い」……痛い痛い、あの肉体の痛さ、苦しさ。それと同一なのか?
高校生の頃、人権団体の研修で、被差別部落出身の人が「差別の言葉を投げつけられること。それはたとえ言葉でも、とんかちで殴られたように痛い」と言っていた。その真実性は一旦保留しつつ、僕は(折角「研修」という場で聞いたので)その「同一」を敢えて信じることにした。言葉は時に、暴力に匹敵する。言葉でさえそうなのだから様々なことは暴力になり得る……。ならば、暴力的な様々なことに抵抗するため、時に黙って暴力を振るう、振るわれることも、それほど無茶苦茶な話ではない。