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初手で!

「初手で」は、合言葉であり、鍵言葉だった。

主宰する劇団の稽古、その初日。僕は筆が遅いので、俳優が予め渡された脚本を読んでから稽古場に臨む、ということはない。俳優は稽古場で初めて渡された脚本を読むことになる。また、脚本は本番まで完成しないことが多いため、稽古のたびごとに、少しづつ、そこまで書き上がったばかりの脚本を渡されることになる。

時間がないので、まあ取り敢えず読み合わせましょう、ということになる。先ずは黙読で下読みしてもらって、という時間はない。読む前に、このせりふはこういう意味でして、こういう風に読んでください、と事前に説明する時間もない。取り敢えず、読む。

勿論その出来は、たどたどしい。全くの初見なので、文字を読み切ることすら難しい。そのせりふを言い始めた時には、肯定で終わるのか否定で終わるのかもわからない。ともあれ、読み終えて、流れは理解できた上で、注釈や注文をつけ再び読みあわせる。

……先ほどより良いものができる。そして更に細かい演出をつけていく。次に読む時は、更にせりふに慣れ、且つ演出の意図も汲みつつ、より良くなっていく。

……と、これはまるで彫刻のようだ。ただの無骨な木材を、荒削りして、何となく全体の形が見えてきて、細部に手を入れ、こういう作品かとわかるようになり、研磨することによって、よりより完成度が磨かれていく。

ただし、完成品は最初の木材より小さい。接ぎ木をしない限り、どんな熟練の彫刻家によっても大きくなることはない。彫れば(どんな彫り方であれ彫る以上は)、必ずその分、小さくなっていく。斜に見れば、最初の無骨な木材そのままの方が、その小さな仏像より、味があって良かった、という主張も成立し得なくはない。

演劇の稽古においても同様のことがいえるかもしれない。より良くなっていくことで、少しづつ失われていくものがある。より完成度は高まっていくが、小さくなっていく。あれ、小さいぞ、と思って慌てても、大きくすることは出来ない。ともすれば、最初にたどたどしく読んでいた時の方が良かった、と思う時さえある。勿論、今更わざとたどたどしく読んでも、それは違う角度でノミを入れることに過ぎず、こうなると泥沼。

しかし「だんだん小さくなっていく」ことも問題だけれど、「だんだん良くなる」ということこそ問題ではないか。一回目より二回目、二回目より三回目。小さくなっていく、のは仕方ないとしても、まあ良くなっていく。しかし、何だこれ。良くなっていくことには限りが無い。ただ、現実的には本番がある。どこかのタイミングで、現時点を提示しなくちゃならない。

だんだん良くなる、ということがとても不誠実に思えてくる。どこかに、品質の責任を置き去りにしてきたような。だんだん良くなる以上、今あるものは、次よりも良くないもの、だ。それをわかって、何故それを提示する? だんだん良くなると知っているなら、何故、今、良くしない? 何を、出し惜しんでいる?

そこで「初手で」だ。今、渡した脚本を、俳優は初めて演じる。試し読みの機会すらない。全くの一発目。でも、この初手が全て、と思ってやる。初見だから上手く出来ない、というのは一体、誰に対して、何を担保にできる言い訳だ。完成が無い以上、それは本番中でも稽古に過ぎず、最初の稽古でも本番に等しい。程度問題でしかない。それが本番である以上、初見だろうが百回目だろうが、程度の差、とにかく「成り立たせて」しまわなくては。

もしそれが「成れば」大きいままで、完成度の高い作品が出来る。

……最早、精神論をも超越した、オカルト的演技指導。斯くて、読み合わせの前は「初手でいきましょう」と声をかけるのが常となった。まあ、その具体的な成果はさておき……ともあれ、これは日常の、色んなところにも使える。

例えば銭湯に入っている時。僕は、チャキチャキの現代ッ子なので、おっかなくて水風呂には普段、入らない。なんでわざわざ、あんな冷たい風呂に! まあ、健康? なんだろうけど……。でもま、ちょっとチャレンジしようかな……と思ったその瞬間!

「初手で!」

心で唱える。もう逡巡は無し。今この瞬間から身体が動く。最短距離で水風呂へ真っ直ぐに。そして、全くのためらい無く、水風呂に浸かる。一切の動きに淀みなく。そこに水すらないように、歩き、腰掛ける。恐る恐る手をつけて「つめた!」とかいいながら手を引き様子を探る、なんてわけはなく、その対極。

そして僕は水風呂に浸かることができた。

様子見でも、牽制でもない、初手、王手。

慣れない料理。だが、慣れた人みたいに、卵を、両手でなく片手だけで割って、中身を落とし、綺麗に殻を捨ててみたい。今迄、そんなことはしたことない。が、やってみよう。何個か練習すれば、出来るだろう。卵に体する力加減、指の開き。小さい頃、両手を使っても失敗した、けど、今はできる。片手でも、何個か割ってみせれば……と思ったその瞬間!

「初手で!」

心で唱える。試し、ではなく、完璧な、力加減を想像、いや仮定、いや断定せよ。それは、わからなければ難しいことだろうが、わかれば難しいことではない。なら、わかれ! 最初から。わからなくても。わからなければ、必ず失敗する。わかったことにしてやれば、それが当たっていれば成功する。そしてそれは、何も根拠のない数値当てじゃない。自然な流れがあるはず。自然な流れを、掻き乱すとしたら、自分が蒔いた要らぬ恐れのみ。

そして僕は卵を片手で綺麗に割ってみせる(それぐらい、誰でも初手でできますか)。同じ方法で、野菜の千切りもできるようになった。

取り敢えずビール、ではなく、駆けつけ一番お会計、の精神。

2012年に国立新美術館で開催された『「具体」~ニッポンの前衛 18年の軌跡』展を観た時も「初手」について考えた(この作文はただの戯言ではなく、余所見の原則通り、ちゃんと作品評でございます)。

「具体」は初手が良い。仔細は忘れたけれど、具体結成前に、どこかの展覧会にメンバーがみんな「具体」という作品名で揃えてそれぞれ作品を展示した……これが具体の初手。その後、メンバーが「具体」を結成する。結成前から、足並みが揃って並々ならぬ。

また結成後に刊行された機関誌は、創刊号から海外に向けても発信された。数号出して「そろそろ海外にも送ろうぜ」ではなく、創刊号から。

これもって「具体」だけでなく、一見、相対に過ぎない、各種芸術の価値判断も出来る。初手が、効いているか。

「初手で」は、謂はば気持ちを締めるための、良い言葉なのだけれど、逆に言えば、残酷で、疲れる言葉でもある。初手が駄目なら、最早駄目、ということだ。終わりよければ全てよし、の反対で、始め悪ければ、全て悪し。しかもただの反対ではない。「終わりよければ」は、何時でも修正可能だが、「初手で」は、後で気付いても、今更反省しても、悔やんでも、挽回不可能。

今まさに、動こうとするその一歩、それが「初手」だと気がつける幸運はあまりない。

芸術大学に入ることが決まった頃。同じく芸大を志望する知人が「俺は卒業してから何になる、じゃなくて、在学中に何か成し遂げて見せる」と息巻いた。「そうか。がんばってな」と言いつつ。いや、遅いんだよ、お前も、俺も。俺たちは春から晴れて大学生だが、もう既に手遅れなんだ、これからでなく、今、高校生の時点で……。才気溢れる同世代を見てきた僕はそう思った。一体、何時、何処で、何を間違えて、今に至るのか。三十路も半ばへ差し掛かる頃、あまりにも手遅れな問いだ。

平穏な住宅街における通り魔の不意打ちにすら先んじる、初手を!

妖精論

暑い。薄着をしても、数歩で汗まみれになる。少しでも涼しくしようとした薄着に、汗が染み渡りきる。自分でもはっきりと自身の悪臭が感じ取られる。他人からすれば尚更だろう。たまらず服を脱ぐが、これ以上は脱げないことに気付く。まとわりつくぶよぶよした肌色の何かを懸命に探っても、継ぎ目はない……。

この季節(この作文は夏に書き始めた)に限らないが今は特に……この身体が忌々しい。身体というのは厄介なもの。曲げれば折れるし、刺されば血も出る。この辺の事情は誰もが等しく抱えるとしても、僕の身体は特にひどい。平均に比して、重く、大きく、また醜い。図体だけは大きいが、かといって腕力はなく、脚力も耐久力もない。息は臭いし、少し興奮しただけで声は甲高くなり、鼻息も荒くなる。時所構わず普通にうんこは漏れるし、小便も垂れる。髪は後退しつつあるくせに、鼻毛は伸びるのが早い。

この、百キロに及ばんとする重荷を、文字通り肌身離さず背負わねばならない。ちょっと今日一日だけはシッターにでも預けて身軽にお出かけする、なんてこともできない。子泣き爺の如く張り付いて決して離れない。泣きたいのはこちらの方だというのに。

せいぜいできることは、布類で身体を包み隠す程度だが、それも却って滑稽さを強調するばかり。

こんな状況で正気を保ちながら生きていくとしたら、この思想に頼るしか無い。即ち「心身二元論」。心と体は対をなすも、それ故に別物。ハードとソフトの関係。体の大切さを認めつつも、今や大自然の脅威を生き抜くことが全ての原始時代に非ず、有史以降、大切なのは心の方。それに体は生まれによるところ多く、つまり運、本人の性質に関係ない。人権的な観点からも、身体に価値観を重く置いてはならない。

つまるところ、人間、外見より中身が大切。

児童文学の名作「新ちゃんが泣いた」のラストシーンで、四肢性マヒの新ちゃんは喝破する。「健全でない肉体にだって健全な精神は宿る」と。小学生の頃……そも「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言い回しを知る前……にこれを読んで感動した。各種教科書に載る偉人たちの写真から、比較的醜い人を探し出して集め、傍証とする学生時代。

………勿論、この一連のオチとしては「そんな精神もまた、身体における作用の一部分でしかなかったのです」が用意されている。心身一元論。精神は肉体の電気信号に過ぎず、時に疲労し、患い、薬にだって影響される。

父が腎臓病を患ってから怒りっぽくなったのは、中学生の頃、衝撃だった。父が怒る時は、一応、相応の理由や筋がある、と思っていたからだ。そうでなければ不条理だ。しかし、父は身体の病を理由に、怒りを向けた。如何に身体を患おうと、精神は無関係なはずなのに。

いや……病や障害の例は出さずとも、己の出張った腹を見よ。それは生まれつきの不幸ではなく、不摂生の所以、精神の怠惰に他ならない。精神の純然たる所産だという、身体から切り離され偽り容易な作品や作文……そんなものを見るよりも、あなた自身の身体を眺めた方が、むしろあなたの精神がどのようなものか、よくわかる。僕がどんな人間か、身体を見れば精神ごと明らかだ。

が、本稿では今少し、こうした幾つかの葛藤を内容しつつも、心身二元論を保留にしたまま話を進める。精神と身体は影響しあうけれど別物で、身体も大事だろうけれど、精神がより大事だということ。精神は自由で「大事にできる」ということ………

さて「妖精」について、だ。しかし、妖精について語ることは難しいので、似て非なる「アイドル」について先ず考えてみる。アイドルを妖精と形容するアイドルファンもいるだろうから。

しかし、このご時世、アイドルについての論は山程あろうし、そも僕はアイドルに興味なく知識もない。アイドルに興味ないのは「心身二元論」において、身体を前面にすることは邪道だから、と昔から考えていたからだけれど……まあより大切なのは精神であっても、肉体も良ければそれに超したことはない。アイドルも多いに結構。

「身体を売り物にする」なんて言ったらアイドルやアイドルファンは怒るだろうか。それはまた別のことで、アイドルは、勿論、美しい/可愛いけれど、それだけでは駄目で、歌や踊りや語り、といった何だか呪いめいた技術とあわせて初めてアイドル足り得る……かは知らないけれど、最近はそれに加えてそれぞれの背負った物語、なんかも併せ持つ。それは多分に精神的存在でもあるだろう。「アイドルうんちしない」というように、身体の生々しさは「無かったこと」にする。またアイドルにとって「恋愛」がスキャンダルになりうる。アイドルファンは、肉体に堕さないその精神のみを愛している。

しかしまあ……それは寧ろ「心身二元論」を前提にした後ろめたさから、精神の有り様を問題にしているだけで、アイドルが精神よりも身体的な存在として出発し/優先されることは間違いない。

美しい身体の、精神の有り様が問題となるのがアイドルだ。

一方、結論からいえば「妖精」は、精神の問題に始まり、精神の問題に終わる。身体に関する議論を不可としつつ……しかし言語化してはならないレベルで、身体が問題になってくる。

イギリスの児童書に「レインボーマジック」というシリーズがある。日本では新刊乱発で有名だったゴマブックスが翻訳・発行していた。読んだことないけれど、各巻のタイトルが「赤の妖精ルビー」「オレンジの妖精アンバー」と色の妖精に始まり、「ケーキの妖精チェリー」「お洋服の妖精フィービー」「月曜日の妖精ミーガン」……とどうも本家では150巻ぐらい発行されているらしい。「ディスコの妖精」「乗馬の妖精」なんてのもある。

このシリーズ「~の妖精」を見る通り……妖精とは、自然現象であれ人工的な概念であれ、その、特定の何らかの「象徴」として生まれる。ただの妖精、はいない。例え小さくて羽が生えていても、ただ生きて、摂取し排泄し交配し、またそのために社会を形成して、時に居酒屋で愚痴をもらす……そんな生物は妖精とはいえない。「精神的な領域が凝縮して、人の形をとったもの」。妖精は我々人間にもささやきかける……交流可能な点において「人」と同じなのだが、人ではない。これが妖精の第一条件だ。

そして、その第一条件だけで充分、妖精なのだが。しかし暗黙の第二条件がある。条件といっても、そもそも実際には存在しない架空の妖精について、条件も何も無いのだけれど。先述したような「何も象徴しない妖精」がいてもいいのだけれど。各種の物語や図像から、多く共有されている「妖精」として、の第二条件。

それは、例えば可憐であること。或は、優れた、美しい身体を持っていること。現実の身体とは本来切って離せない生々しさがないこと。

恐らく一般的に、漠然と抱かれている「妖精」のイメージで、妖精が醜いことはない。ただ確かに、その可憐さ、については一概に言えない。そも、美的なイメージは千差万別だ。ただ、共通して「生々しさ」はない。頬に痣のある妖精はあまり想像されない。

以上、わかりやすくいえば、妖精の「精」は、精製された精神であり、妖精の「妖」は、ただならぬ美しさや可憐さ即ち妖しさ、を表す。

水の妖精が、例えば蛇口からふわりと舞って出てくることはあろう。その時、何を話すだろうか。「水は大切に使ってくださいね」「はい、わかりました」とか……? まあ多分、水の話になると思う。水の妖精だから。しかし「水の妖精さんって、滅茶可愛いですね」という話にはならない、できない。まあ、これは妖精でなくても、相手が普通の人でもそうだけれど。ただ、普通の人相手に「可愛いですね」は、かろうじて会話としては成り立つかもしれないけど、水の妖精にそう言ったとしても「?」となるに違いない。「いやそこは重要ではない」どころか、全く意味を為さない問いだ。

勿論、妖精は現実には存在しないので、厳密に言うと色々矛盾もある。水の妖精がかろうじて話しそうな人語「水は大切に使ってくださいね」の、水、はともかくとして、大切、使って、ください、は、に、ね、といった各種品詞。その精神から発せられる言葉は、全て自身の「水」のために向けられる。が、言葉自体は、水、とは関係ない、他で使える不純なもの。水の妖精がいたとしても、言葉なる不純物は使えないはず……そも、人の形……身体を纏って現れることが根底的に間違っている。「美しい身体」という妖精に許された領域も、それを構成する各器官、例えば目、髪、胸等……はそも美しい身体のために存在するのではなく多目的な不純物だ。水は、水。

斯くて妖精は、フィクションとしても危うい存在だ。その存在を、合理的に説明しきれない。

しかし、稀に、現実の社会に、実在の人間の中に、妖精の如き人がいる。

フィクションでも危ういはずの妖精が人間として、目前に降臨することがある。ここからが本題だ。

「その人」のことを考えるに、その精神を語るより他は無い……のに、ただならぬ妖しい身体を纏う人が。いるでしょう、稀だけど、わりといる。その鋭利な精神に、そもそも身体なんて生々しいものは追いつかないぐらいのはずなのに、追い越しちゃっている人が。単に、美しい、可憐、だというわけではなく、身体の持つ生々しさを何処かに置いてきたような(妖精が話す言葉のように、身体であることが、生々しさを逃れ得ないのに)。

勿論、そんな人の存在は旧来の心身二元論に頼る僕の心を掻き乱す。それこそ、できることなら、人は身体と精神の美徳を足せば誰もが同じ(つまり、醜い人は心が清く、美しい人は心が醜い、そのどちらかの間で公平)として欲しいところを、何とか妥協して、身体の美徳も認めつつ、大切なのは精神よ身体も大切だけど、と不公平をも受け入れる大人らしい折り合いまでつけてきたのに。究極の精神には、妖しき身体までが付随する、精神を身体が裏付けて祝福する、なんてこと。醜い僕がどうして受け入れられようか。

これは、心身両方優れた人が羨ましい、という問題ではない。なかなかその違いを言葉にすることが難しい。ことは「心身は一元で、健全な肉体に健全な精神が宿ったね、すごいね」とは違う。二元論のまま、その精神だけが特化していることが間違いないのに、全く別の概念から身体がそこに降り立ってしまった……。

一昨年観た木村栄文のドキュメンタリー2作品「飛べやオガチ」「いまは冬」。この両作品に登場する、前田健一と江口榛一の両老人も、正に妖精的な佇まいを持つ。この場合「仙人」というべきか。前田は「人力飛行」に、江口は「地の塩の箱運動」に、その精神を鋭利に特化させ、捧げたが、この両老人の持つ妖しい身体は、その精神に沿っている。

(この作文は余所見の原則通り、ちゃんと作品評でございます)

また、江口の妻(撮影期間中に亡くなる)と娘二人(次女は既に自殺している)は、ほんの僅かな間しかカメラに映らないが、この三人の女性も現世の人とは思えぬ凄まじいオーラを放っている。

撮る対象がそもそもすごいのだけれど、木村栄文は、かなりその妖しい身体を(いささか、過剰に、ともすれば悪い意味で)捉えようとしている感がある。映像のこと、わからないので「そのように撮る」ことが意図的に可能かわからないのだけれど(前田健一が自宅で金太郎みたいな前掛けをしている姿、そういうのをわざわざ撮っている)。ドキュメンタリー監督として、その人の精神を撮る、ではなく、妖精としての身体を撮っている。

僕が観た他の作品では、「鳳仙花 ~近く遥かな歌声~」では芥川賞作家の李恢成、「記者それぞれの夏 ~紙面に映す日米戦争~」では活字を拾うアメリカで日本人向け新聞を発行する社主、また再び「いまは冬」では三里塚の若い活動家、たちが極めて妖しい。

そういえば木村栄文自身もまた、映像にしばしば登場するが、なかなかの妖精っぷり。

妖精論といっても、論ではなく、ただのオカルト。妖精なる現象の必然性を説明することは一切できない。ただ、現実に存在している。木村栄文という公共を持ってきたが、もっと他にも、身近に、或は著名に、いる。妖精は、わざわざこうして文章にするまでもなく、概念としてはよく普及している。この作文は「自明を敢えて言葉にする」の類になる。

誰もが心の中に自分の「二・三次元物件リスト」を持っているように、「妖精図鑑」も持っているだろう。しかし、前者と違ってこれは共有し得ない。口にすれば、指をさせば、妖精は遠のく。こうした作文を書くだけでも本当は駄目なのだ。

※ オチが思いつかないまま下書きから数年が経過しましたので、このまま掲載。

二・三次元嗜好症

二次元を平面、三次元を立体、とすると、二・五次元は半立体、だろうか。しかし、半立体というほどまでに立派な立体というわけでもなく、かといって、例えばエンボス処理程度の、ちょっとした浮き上がり、程度でもない。それ、を大体、二・三次元と定めよう。半立体と平面の間(やや立体寄り)。

僕は二・三次元の物体が好き。僕に限らず、きっとみんな好きだろう。

しかし、なかなか無い。もしあったら教えてほしい。誰もが、それぞれの、二・三次元物体のコレクションを持っているであろう。しかし、恐らくはそんなに数がないので、秘匿したいはずだ。しかし、何でも共有の時代。僕が断腸の思いで、今咄嗟に思いつく、二・三次元コレクションを惜しげも無くお披露目するから、これを読まれた方は僕にも教えてくださいませ。

といっても二点だけだけど。

交通人形

まず一点。僕が二・三次元嗜好症に目覚めた逸品。交通人形。それは、堺市民会館近くの横断歩道前にあった。今は無い。もう随分前になくなった。小学生くらいの頃だ。それが現役で佇んでいた時、僕は一人の通行人だった。通りかかるたび、何とも言えない感傷を抱いた。それは物体としての機能を全うするのみ、僕はただの通行人で、今こうして「二・三次元嗜好症」と名付けてしまった以上、もうそんな自然な状態には達し得ない。惜しいかな。

後年、ネットで画像を発見する。Wikipediaで。「人形」の項にあった。

ファイル:婦警と子供の交通人形.jpg – Wikipedia

「ああ、二・三次元というのは、そういう安っぽい人形とかのことね」と早合点されませんよう。……まあ、概ねはそうなんだけど。

この写真では伝わりにくい。ので文章で説明すると。この交通安全人形は、婦警と子供を模した珍しいデザインで(だいたい交通安全の図示って子供単体が多い)、単に注意を促すだけでなく、横断の際に掲げる「横断旗」を収納するのが主目的だ(なので二組で一セット)。いずれにせよ、機能としては看板(平面)に小箱(立体)でも事足れり。それでも、立体感のある人形にしているのは、まあインパクトあるからか。

で、勘所はここから。この人形は、見た目通り、看板でも良い、から、比較的平面的な作り。

しかし、実は正面から見たとき、婦警の正面の顔が、ちゃんと成り立っている。平面的な作りのまま、なので、ものすごい細面で! 一方、子供は、構造上、婦警の後ろ一歩下がっているので、正面の顔、が構成されていない。正面から見ると、裂けている。

この「平面的なものが立体であろうとする時、何かしらちぐはぐなものが発生する趣」が、二・三次元の勘所。

残念ながら、この人形、ネット上でもいくつか写真は見当たるのに、正面から撮った写真は見つからない。そこが一番、趣があるのに(また、婦警と子供、というデザインで共通しつつ、幾つかバリエーションがあるようで、顔がきちんと立体なものもある。子供は割れたままだが)。

この個人サイトに掲載されている写真が、かろうじて雰囲気が感じられる。

婦警さんと子どもの像|morisaketen.com

さて、何年か前、堺、高須神社近くの古物屋で、色褪せたこの人形と再会した。値段は(値切って)一万円。悩みに悩んで買わなかったけど。そして、この古物屋も閉まってしまった。もう少し保存状態が良かったら。

階段

これよりレベルはぐっと下がるがもう一点。これは最近、会社へ通勤する際に見つけた。

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ファッションブランド、マークジェイコブズの心斎橋店。僕はブランドについては皆目わからないが、このまるで仮設のような看板、何となく雰囲気はわかる(少なくとも過剰に装飾的ではない、ぐらいですが)。そしてこの、取ってつけたような階段。わかりますわかります。それぞれの部品、その佇まい方に、共通性がある。まあ、だからこそのブランドなわけだが。

さて、この階段。もしやと思い、近づいてみると。

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いやはや。細すぎて実用的ではないとはいえ、一応階段かな、と思いきや。細いどころか、奥行きがなくて階段から折り返しができない。そして階段にも通路にも底がない。これもまた、立体であろうとしながら、その辻褄が合わぬ例。

まだまだあるでしょう、二・三次元物件。教えてください。

2017年追記

建築だと、雑居ビルの和風料理店などでむりやり屋根瓦を配するなど、これに近しい感触あります。マークジェイコブズと似たパターンですが。同様に、天王寺駅前で有名な、ファッションホテルの上部にある「大阪城」もその類でしょうか。

それらもなかなか良いものですが、なかなか交通人形に匹敵するものは見つかりませんね。何か、生きていて、折々、これは、と思う機会もあったような気がするのですが、忘れてしまったり。概念的な蒐集も、なかなか気を張らなくてはすぐに散逸してしまいますね。

似姿論

※ この作文は、(かなり)以前に発行した余所見の何かしら小冊子に収録したものです。発掘したので、ここに再録します。

こんにちは。似姿研究室へようこそ。それでは今日も早速「物語における似姿」について楽しい議論を交わしましょう。

何? 物語における似姿、がどういう意味かわからない? なるほど、貴方は偶然、この研究室に迷い込んできたのですね。何、ご心配はありません。すぐにあなたもめくるめく似姿の世界の虜になるでしょう……。

似姿とは文字通り、似ている姿。つまり「そっくりさん」のことですね。物語、主に漫画における登場人物の、そっくりさん、が私の研究対象です。しかも、ただ、そっくりさん、なだけでなく、

「登場人物が主に死亡するなどして退場した後、唐突に登場してその後釜を担うそっくりさん」

が対象です。何言っているのかわからない?

つまり……「物語を盛り上げるために、どうしても登場人物の死が必要だが、一方でこいつが死んじゃうと、後々の展開に困る……そうだ、じゃあ、こいつに兄弟か何かがいたことにして、その後の役割を継ぐことにしよう! 顔もそっくりにしておけば、読者も違和感もないだろう……これで物語も盛り上がるし、破綻しないし、一挙両得、三方良し、そっくりさんさまさまや!」……これです。

そんなご都合主義がまかり通るのか? とにもかくにも、そんな似姿たちの実例を見て行きましょう。

先ず、一番有名どころはご存知「金田一少年の事件簿」に出てくる、佐木竜太と竜二です。

竜太は金田一少年の同級生で、レギュラーメンバーとして一緒に事件へ巻き込まれます。彼は映像機器を扱う店の息子であり、彼自身もビデオカメラを常に携行し、撮影しています。それが証拠として活きることもあり、まさに探偵ものにうってつけなキャラクター。そんな彼自身の出自もまたご都合主義と言えるかもしれませんが、そんな性格・役割が災いし、ある事件で偶然トリックをといてしまい、犯人に口封じのために殺害されてしまいます! 週刊少年漫画で、レギュラーメンバー、しかも主人公と同じ学生が、殺されてしまう……。なんだかんだいってレギュラーは安泰でしょ、という暗黙のお約束を反故にしており、かなりショッキングでした。

が! その後、彼の弟である竜二が後を継いで、レギュラーメンバーになります。性格も見た目もそっくり。兄と同じく映像機器を携行し、物語における役割も同じように果たします。

事件後、佐木家では悲痛な葬儀が行われたと想像しますが……そっくりな弟がこんなに元気なんだから、ま、いっか、兄のことは、まあ、しゃあなかったわな、という気になります。

思い切ってお約束を破る、まるでその反作用として生じたご都合主義……。やはり少年誌では、彼は死にました、それだけです、じゃすまなかったのでしょうか。その後も、常に埋め合わせることの決してできない彼の不在を痛感しながら物語を進めることは、できなかったのでしょうか(あらゆるエピソードのラストを「いくら事件を解決しようが竜太は戻ってこない……」で結ぶ)。

でも、そっくりの弟がその跡を継ぐことで済む話、なのでしょうか。

次に紹介しますのは、似姿といえば、の「静かなるドン」です。つい先日、とうとう二十年以上に渡る連載が終了し、単行本にして百八巻を予定している大長編。ですが、その物語は精密に練られたプロットというより、古き良き週刊漫画といった感じで、極めて行き当たりばったり、でたとこ勝負。でもこれがべらぼうに面白い!

「憎しみの連鎖」が大きなテーマですが、連鎖というより「連載」と言い換えた方がいいでしょう。人気がある故に続く、続く故に憎しみが断ち切られない、新たな戦いが常に起きる……結局、登場人物の殆どが死に絶えることによってしか、物語を終わらせることができませんでした。

登場人物が新陳代謝するこの物語は、似姿のオンパレード。死んでしまったヤクザには、実は双子の弟がいて(万間正造、万間猛)……と、復讐劇に暇なし。

面白いのは、そっくりなのに、似姿の所以が兄弟とは限らないことです。近藤の側近の一人、沖田は、渋い役どころですが、抗争のうちに悲惨な死を遂げます。その跡を継いだのは、引田。名前も顔も性格そっくり。姓が違うので血縁でもないはず。でも、そっくり。この引田、結果的にはほんの序盤で死ぬ沖田に比べて長く活躍しますが、最後の抗争では沖田同様、あっさり死亡します。

静かなるドンに欠かすことのできないコメディリリーフ、生倉新八。その配下で、戦闘隊長の小林秋奈。この二人の遣り取りは、ああ「静かなるドン」だなー、という気分になる名シーン。小林は、銃弾を避ける、という特殊能力があります。避けた後「チッチッチ」と指を振って挑発するのがお決まり。この特殊能力のおかげで、血なまぐさい物語でも、ギャグキャラクターとして生きながらえるだろう……と思いきや! とうとう敵に囚われの身となり、避け切れないほどの銃弾を浴びせられ、絶命してしまいます。

ええ! こいつ殺しちゃうの? と、誰もが思ったに違いありません。もう、あの二人の遣り取り見られないじゃん……。しかし、その後を、今度は大林なる人物が現れ、引き継ぎます。これもまた、似て非なる名前。ただし、完全にそっくりというわけではなく、小が大になったという感じで、小林に比べ大林は体格がずっしりしています。でもやっぱり髪型など、キャラクターデザインはそっくり。大林は、「危険を察知する」という特殊能力があり、危険が迫ると辺りをうろつき叫び回る、という滑稽なシーンも。あの銃弾避けほどインパクトはないが、まあこれで安心か……と、思いましたが、やはり小林に及ばず、その後影が薄くなり、登場しなくなります。似姿の失敗作。

え、何ですって? 所詮、似姿は、週刊漫画誌程度の安っぽい、いわばパルプフィクションの産物に過ぎず、議論に値しない、ですって?

では、とっておき、バリバリのアート方面から、似姿の例を紹介しましょう。

あの蓮実重彦も絶賛した映画、ヴィターリー・カネフスキー監督のロシア映画「動くな、死ね、甦れ!」。カンヌ国際映画祭のカメラドール賞受賞の、文句なしのアート系ですね。

観たのだいぶ前なので、どんなんか忘れましたが。終戦直後、ロシアの村に生きる、反抗的な少年ワレルカが起こす度の過ぎた悪戯。そんな彼を、ツンツン見守る魅力的な少女ガリーヤ。何故か忘れましたが、ガリーヤはラストで死んじゃいます。可哀想に。その死に衝撃を受けた彼女の母親が全裸で狂乱する、という衝撃的なシーンが映画のラストです。

これだけのことをやらかしておいて!……続編の「ひとりで生きる」では、実は彼女にワーリャという妹がいて、死んだ姉に成り代わり、ワレルカを見守るのです! 演じるのは、同じ俳優、ディナーラ・ドルカーロワ。同一人物だから、まごうことなき似姿です。というか、殆ど、前作の死だけが無かったことにされて物語が続くような状態。勿論、第一作ではワーリャの存在は一言も触れられません。

それってどうなの?(ソ連だけに)。フェミニズム的にいえば、滅茶苦茶です。男の主人公を可憐に見守り続ける少女、例え死んでも今度はそっくりの妹が用意されている。

このように、似姿の問題というのは、単なる「ご都合主義」だけの問題でなく、その根底には倫理的な問題が潜みます。いてほしい、という「生」と、いなくなってしまえばいい、という「死」を、フィクションだから許される手法「似姿」によって折り合いをつける。現実的には不可能だからこそ、この物語の表現は、看過できない違和感を持つ。

それにしても……普通に考えれば手法として「似姿」は下の下でしょう。いわば夢オチに類するような。それでもしばしば用いられる似姿の妖しき魅力。もし、他に似姿の例がありましたら教えて下さい。

完全な本について

※ この作文は、2012年頃、知人が発行するフリーペーパーに寄稿したものです。

本が好きな人には、具体的に好きな本があると思う。例えばその中でも珠玉の一冊。でも、その本ですら、表紙から裏表紙まで、目次から奥付まで、序章から終章まで、全ページ欠かさずどこをとっても大好き!……ってわけじゃないかもしれない。

例えばそれが小説なら、山場ってものがあるだろう。どこが山場と感じるかは人それぞれだけど、それ以外は谷場ってことになるから、そこだけ摘まんでいえば、それほど好きじゃないかもしれない。

だからって、山場以外を削れば結果的に密度が高くなって全ページが好き、とはならない。そりゃそうで、本は全体で一冊だから、流れというものがありましょう。谷があってこその山。この一行のために一冊がある、という本が、その一行しか面白いところがない、ってわけじゃない。

流れ、じゃない本、例えば魅力的な図鑑ならどうだろう。本は、流れを追って収まるだけでなく、ぱっと開ける利便性から、データベースそのものをどぼん! ……と収納できる。それが読者にとって魅力的な系のものならば、どこを開いても楽しいかもしれない。ただ、そういうのって、その頁を引く動機とか内容とか、本以外から接続されていて、それも本そのもの全てが楽しい、ってわけでもない気がする。開かれないままのページがあるかもしれないし。

そもそも、本に期待される役割から、完全な本が必要とされているわけではない。

ただ、本がああいう形をしている以上、もう隅から隅まで、全部が全部大好き、楽しい! ってのが、あってもいいんじゃないかと思う。

それは、全ページ無駄なくハラハラドキドキの、とんでもない本を作るぞ、って途轍もない偉業のことではなく……単に作り方の問題って気もする。誰にとっても面白い本、という意味ではない。ジャンルの問題か。本を、流れでもなく、またデータベースでもなく。その形の、すべてが面白くあろうとする本であれば。

そんな本や案、ご存知でしたら教えてください。

こんなことを思いついたのは……「本が好きな人には、具体的に好きな本があると思う」とまわりくどく書き出したけれど、「本が好き」と「具体的に好きな本」には結構、距離がある気がしている。「本が好き」だけど「具体的に好きな本」が実は無い。実は読んで無い、というより、沢山読むけどそのトータルで好き、とか。そんなことがあってしまえるような。僕なんかが正にそうで、僕はしばしば「本好き」なフリをするけど、特に珠玉の一冊はない。そもそも読むことすらあまり無いので、機能としての本が好きというわけでもない。まさに悪しき印象、幻想のみの、中身の無い本好き。

でも、そんな虚妄を引き受けてしまえるような、本があればいいなと思った次第です。

バランス

これは飽くまで例ですが。「若い頃にこそ苦労してでも勉強しておく」という意見と、「若い頃こそ遊んでおかないと」という意見が、それぞれ対立してある、とする。

若い頃に苦労して勉強したら、その分知識が身について後で役に立つだろう。その代わり、遊びを知らない、つまらない人間になるかもしれない。若い頃に遊んでおくと、それはそれで豊かな経験としてこれまた役に立つかもしれないが、一方勉強を疎かにした分、恥をかくこともあるだろう。……勿論、勉強も遊びもどっちもやったらいいんだけれど、一日が24時間である以上、各種の工夫を凝らしても、遊びと勉強(それだけじゃないけど、まあ例として)、どこかで取捨選択しなくちゃならない。

ある人は遊びを優先し、ある人は勉強を優先する。それぞれ、お互いを批判するかもしれない。「遊んでばかりじゃなく勉強しようぜ」「勉強なんかより遊ばないと」。そういう言い争いは、あるだろう。故に、二者は対立している。

が、一方で、これらは二者それぞれ価値観が違うというわけではない。それぞれ勉強、遊びを選んだ時の長所、短所、得るもの、失うもの、についてはお互い同じ意見だろう。遊べばその分、勉強時間がなくなるし、逆もしかり。それについて意見が違うわけじゃない。同じ価値体系の中、選んだものが違うってだけの話だ。「遊びの中に勉強を取り入れる」とか、ややこしいことを言わない限り、それは対立しているどころか、ある意味で全く同じ立場といえる。

この例を引き続き用いると。実際問題、それぞれの立場を選んだ人は「遊んでばかりじゃなく勉強しようぜ」「勉強なんかより遊ばないと」なんて、あまり言わない。「遊んでばかりきたもんだから、バカになっちまったよーん」とか「学生の頃は勉強漬けでして、世間知らずお恥ずかしいですわー」と、選んだ立場を堂々主張するのでなく、一種の謙遜に転換して提示するようになる。この状態を、僕は昔「二次的自慢」(謙虚を装った、二次的な自慢)と名付けたりもした。

ただ最近、これをすっ飛ばして、別の、より厄介な問題が見えてきた。本稿はこれが本題。

勉強か、遊びか。安易な二元論を例にして恐縮だが、安易のままにしても、勉強一筋か遊び没頭か、どちらか一極を選ぶわけじゃない。勉強6で遊び4。勉強2で遊び8。とか。前述の通り、対立しているわけではない価値体系の中で、どういう割合、バランスでいくか。それを各々決定していく。

問題というのは、勉強か、遊びか、AかBか、という結論を出すのと違い、バランスに対する結論については、色んな意味で過信されがちなこと。AかBか、だけなら、まだ前述の通り形だけの謙遜が入ったり、もし反対の立場なら、といった想像力も働きやすい。

ただ、バランスについての結論は、これはもう、本人にとってぴったりはまって、また、同じようなバランスをとった他者と突き合わせても、正にこのバランスだ、ってなる。

今気付いたのだけれど。この問題が見えてきたのは僕も年をとったからか。若い頃は、AかBかを単に選ぶところだったから。そっから十数年立って、積極的に選んだかはともかく、周囲の人も含め皆が皆、結果としてバランスをとってきた。そして今がある。これはもう、肯定するしかないんか。また、その過程で、似たバランスの人とつるんできたのだし。

一見、過信に見えないこの過信。自分が選んだ、バランスに対する疑いようの無さ。これはある意味で良い話にもなるもんね。「ま、色々あったけれど、これが俺よ」ってな具合で。「ま、そんな俺、悪くはないね」と。「おすすめはしないけどね、ま、俺はこうだし」って。

でも、あらゆる物事がそうであるように、何事も絶えず疑い、検証して、違うバランスの人や、違うバランスであったかもしれない自分、などと思いを巡らす余地は必要でしょう。

多様性、を重視する文化系左派の僕や皆様も。多様性を重視するから、「勉強」派も「遊び」派も、どっちもこいや、みんな友達やで! とは言える。それは一見、その間に立つ様々なバランスのあり方も許容しているように見える。一方で、文科系左派の内輪が、似たもの同士で仲良く「排除」を発動しないですむのも、バランス感覚を共有することで、異なるバランスの人を暗黙のうちに予め排除しておけるからか。

ちょっと前の「宇宙兄弟」で、こんなシーンがあった。宇宙兄弟、そんなに知らないので人名や詳しい状況は忘れましたが。

宇宙飛行士になれるか否か、その最終的な試験として、現役の気難しめなベテラン宇宙飛行士が主人公に一つ質問する。「宇宙飛行士として、死を覚悟しているか」(でしたっけ?)。この質問に、僕なら、或いは脇役が実際に答えたように「はいはーい。覚悟してます。宇宙飛行士ですもの!」と安易に答えるだろう。それが相手も気に入る模範解答と確信して。しかし主人公は「覚悟してない」と答える。「死ぬつもりは無いから。無事生きて使命を果たし帰還することを考える」と。覚悟していない、この宇宙飛行士として一見意外な回答は、しかし、その気難しい宇宙飛行士が期待していたものであった。

これは「良いシーン」なんすよね。この回答が主人公の信頼を決定付ける。そも、この「宇宙兄弟」って物語は、弟に先に夢を叶えられ、自身は解雇の憂き目にあう、能力がずば抜けて高いわけじゃない主人公が、その都度、絶妙な「バランス」感覚によって、各種試験を突破していくもの。「宇宙兄弟」に限らず、多くの漫画が、主人公の能力の高さでなく、「バランス」によって物語を突き抜けていく。

しかしねえ。これは全く根拠の少ない理不尽なギャルゲーでも遊んでいるようで(「中山美穂のときめきハイスクール」みたいな……あれは事前にテレフォンサービスで情報収集するんだっけか)。別に、死を覚悟した宇宙飛行士も良いと思うんですよね。というか、どっちでも、言いようだ。宇宙船内でトラブルが発生した時、死を覚悟してるから冷静な判断ができるのか、死を覚悟していないから生きるために正しい判断ができるのか。どうとでも。

勉強か、遊びか、という選択肢が実は瑣末なように。そのバランス選択も瑣末だ。それ自体は何も結論付けるわけでなく。というか、それ以外、様々な選択が十分、あるってことだ。しかし、このバランス感覚は非常に重視され、自身のバランス感覚を過信し、共有するバランス感覚を持つ他者を信頼する。また逆に、違うバランス感覚を持つものを排除する。それはもう、安心して排除できる(死を覚悟した宇宙飛行士?そんなやつに大切な使命を任せられないね!)。「勉強」派は、「遊び」派を安易には排除しない。時に敬い、また自身の立場を後悔し、相手の立場に思いを馳せるかもしれない。だが、選び取ったバランスについては、その両者を予め汲んでいる(と思い込んでいる)ため、自身も他者も否定しにくい。

最近、色んな人と話していて、このことをよく考えます。

※ ちょっと論点はずれますが……。例えばネットの時代において、ある「作品」が多数の目に晒されるとしますやん。で、その作品は評判が良く、肯定8割やと。でも2割の人から批判される。この時、このネット時代の感覚に慣れた作者は。多様な意見を認めるが故に、2割の批判にいちいち落ち込まず、そういう意見もあるね、と大人な感じで含む。それは、2割の人にとってはダメダメである、0点である、でなく、自分の作品は「8割肯定2割否定」そんなバランスのもんさ、2割の否定はどんなもんだってあるさ、となる。まあ、それはそうなんだけれど、例えばネット慣れてない人なら、2割の人の批判を真に受けて落ち込むかもしれない。それはそれで、自身の作品を検討することにおいても、必要なプロセスであったかもしれない。バランス、って考えると、そんなもんさ、ってなるような気がする。果たしてこれは、どんなもんなんだろう。

0人いる!

「ダンジョンマスター」というコンピュータゲームがある。……といっても、余所見の如きハイソサエティなウェブマガジンの読者諸賢に、コンピュータゲームなんて俗悪なものに興じる人はいないと思うけれど、ましてや一昔前の海外製リアルタイム3DダンジョンRPGで遊ぶ人はいないと思うけれど。今ここでゲームの話を書きたいわけじゃない。所謂ゲーム・レビューなどではない。或る、お伝えしたいことのために、このゲームの話を通過しなくちゃならない。それも、ちょっと微妙な道を通るため、軽く概要だけで済ませることもできない。

「ダンジョンマスター」というコンピューターゲームがある。もちろん、僕も遊んだことあるが、詳しくはない。プレイヤーは、4人のキャラクターを編成して、迷宮(ダンジョン)に潜り込み、罠や怪物の襲撃など各種の困難を乗り越えて、諸悪の根源的な要人を倒す。こんなゲームだったと思う。迷宮に罠や怪物、ってんだから、現代日本のお話でなく、西洋中世風ファンタジーの世界。

プレイヤーが操作する「4人のキャラクター」は、予め用意された総勢24人の中から選択する。それぞれ、力が強いとか、器用だとか、個性があり、それを考慮しつつ、または趣味に応じて、自由に選択できる。そんな流れは、この手のゲームでは珍しくない。

この「キャラクターを選ぶ」は、ボードゲームでコマの色を選ぶみたいに、単に事務的に選ぶってのもあるけれど、古くは「ウィザードリィ」、メジャーなところでは「ドラゴンクエスト3」では、「酒場でたむろしている連中から仲間を募る」という体裁をとる。ファンタジーな世界において酒場は、百戦錬磨のフリーランスな人がたむろしているのが相場となっており、物語にかなっている。

で、この「ダンジョンマスター」には、もう少し「キャラクターを選ぶ」のに物語がある。実は、ゲームが(物語が)始まる前、既にこの24人は決死隊として潜っており、返り討ちにあっている。黒幕は、見せしめに、魔法の力か何かで、鏡みたいなのに彼ら閉じ込めて「牢獄」に入れてしまった。「牢獄」には、まるで美術館のように、人が封じ込められた鏡が壁面に飾られている(怖いね)。それから色々あって、再挑戦するために、この「鏡」から4人を選んで助け出す(=ゲームに使用するキャラクターを選ぶ)という体裁になっている。

この「ダンジョンマスター」ゲーム画面はひたすらダンジョンの中なんだけど、このキャラクターを選ぶ「牢獄」もまた、ダンジョンなので、

「キャラクターを選ぶ前、つまりゲームが始まる前から、キャラクターが誰も居ない状態から、ゲーム本編と同様のインターフェイスで操作する」

長くなりましたが、今回この記事で書きたかったことはこれ。

一人目のキャラクターを選ぶと、今度はそのキャラクターが「牢獄」を歩くことになります。で、その一人目が次の二人目を選び助け出す。同じ感じで、三人目、四人目と選び、「牢獄」を抜け出せば本編の迷宮が始まります。

このゲーム、一種のギャグか、間違って壁のある方向に進もうとすると「オフッ!」って呻き声とともに、ごくごく軽傷を負います。壁に頭でもぶつけたんですな。

しかし、キャラクターを選ぶ「牢獄」。一人目のキャラクターが二人目のキャラクターを求めて彷徨う時、勿論壁にぶつかって軽傷を負うこともあるんですが、肝心要「一人目」を選ぶ前、彷徨う「主体」は、まだいないのでそういったことはありません。

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※ 「0人目」が一人目のキャラクターを求めて彷徨う図

ゲーム開始直後から一人目を選ぶその瞬間、短い間ですが、「0人目」なのに, プレイヤーが操作する「主体」がある、という不思議な状態。この、「ダンジョンマスター」抜きには理解し辛いこの感覚。これが、ごくたまに、日常の何かで連想したり、或いは役に立ったりもします。

例えば、誰にも行き先を告げず一人散歩していると、こんな感覚に陥ることがあります。道行く人にぶつかったりしなければ、自分は今、周囲から存在しないも同じ。夢中で前を向いて歩いていると自分の身体も見えないし、自分自身の存在も忘れてしまう。ああ今、誰でもない存在が、ふらふら彷徨っている。ダンジョンマスターの最初みたいだな、とか。

よく認識論? とかで「地球に落ちた最初の雷に音はあったか」「世界は本当にカラフルか」という問いがあったかと思います(多分)。音も色も、人間の五官が各種の振動を受けて、脳内でしかるべく変換しているので、今認識できる世界は、飽くまで人間にとって。そこで、「世界本来の姿」を想像する時(んなもの無い、でもいいんですが)、「0人目の主体」が役に立つかもしれません。

もう少し実用的なところでは。何か「作品」を作るとき。作品の種類によりますが、ハードとソフト、この土台と実体が揃わないと作り始めることが難しい。特にハードでつまづいて、ソフトにも至らないケース。

そこで「0人の主体」が「一人目に先駆けて動く」ことを参考に、敢えて「ソフト」の方から走らせる、とか。或いは「ソフトはないけど走らせる」とか。「始める前から始まっている」「始める前を始めることができる」。

例えば、絵を描きたいとする。そのためにはキャンバスや紙などの支持体、鉛筆や絵の具などの画材、を用意しなくちゃならない。それを細々と棚から出したり買いに行ったりしているうちに、絵を描く気も失せる。くらいなら、絵を描きたい、と思った瞬間に、支持体も画材もないまま「描きはじめる」。突如、指先で。その軌道を記録しておき、後で支持体と画材を購入し、記録した軌道を再現して絵を完成させる(どうやって即座に後日再現可能な形で指先の軌道を記録するかという大きな問題は残っていますが)。

はたまた、小説を書きたいとする。これなら、ゆうても文字だけだから準備がなくてもすぐに書ける。しかし、さらにその前提となる物語があるわけじゃない。登場人物は勿論、世界観もない。それすらの用意はない。でも、小説を書きはじめてみる。主人公が登場して、それは誰かわからないし、何処にいるかもわからないけど、取り敢えず登場させる。その主人公が立ち上がる。立ち上がってから、座っていたとわかる。時系列的には、最初に座っていて、次に立ち上がるわけだけど、この手法においては、立ち上がってから、座っていたことが後で決定される。そういう調子で、小説を、とにかく書いていく。勿論、それが良い作品にはなるかは、かなり別の話だけれど。

「0人目の主体」に牽引させる方法論。一人目が登場する前に。

※ 24人のキャラクターのうち2人は、特別に強力なキャラクターとなっており、牢獄の中でも隠し部屋に閉じ込められています。その隠し部屋に進入するためには、(確か)スイッチを押したりしなけりゃならない。「0人目」には、その操作が不可能です。押す指がないし。そこで、強力なキャラクターを戦列に加えるためには、予め最低一人選ぶ必要がある。その一人が、隠されたキャラクターを探しにいけるわけですが、隠し部屋にはモンスターも沢山待ち構えています。ああ、0人目ならモンスターに噛み付かれる心配もないのに……。この葛藤も面白い。

追記

例えばですけど、今時分、新しいアプリケーションやサービスを作るとしたら。従来なら、アカウントを作って、そのために必要な情報を入力して……だけど、今なら多分、まずサービスの表象を実践させて、というノリになるかと思います。知らないけど、フリマアプリなら、スターとさせた途端、一番最初にカメラが起動、売りたい商品はどれ?つって、撮影させて、いくらにする?つって、金額入力させる。で、商品ページができました! って公開させてから、細かい入力をさせる、みたいな。に、今、恐らくなっているでしょう。これもまたダンジョンマスターの応用かな。

たのやく

以下の記事は、先日、余所見編集部用メーリングリスト、つまり内輪向けに投稿したものの転載となります。文体やテンションが、内輪向けの何かとアレなものになっていますが、ご容赦ください。

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やあやあ。皆様。ご機嫌麗しゅうクリーム。山本握微です。

最近は、何かとご無沙汰してすみません。

昨日も昨日とて、FLOATに押しかけ劇の稽古し、夕方新幹線に乗って広島へ、仮眠をとって深夜労働、今くたくたで東横イン、といった按配なんですが。

この客室に、聖書のほか、なかなか面白い本が、雑誌がおいてありまして、皆さん、常識かもしれませんがお知らせいたします。

客室専用紙「たのやく」という雑誌です。

これは、機内専用紙、的何かを狙っているのでしょうか。昔から、こういうのあるんでしょうか。

発行は「たのやく出版」とかなってますが、どうも東横インが実質出してるみたいです。広告は東横ばっか。

でも、こういう体裁ということは、どっかのホテルにも卸してるんでしょうか。それはわかりません。

で、この雑誌なんですけど、今みたらもうvol.88とかなってるんですが。

特集「人生を豊かにする本との出合い第六弾・読みたい!珍書」と、まあ、ありがちなブックガイドかと思いきや、今回の場合、全32媒体(書籍・雑誌、ネットもあるかも)から「転載」してるんです。

で、どうも、この雑誌、毎回そうやって、既存の書籍・雑誌から「転載」で成り立ってるみたい。

面白いことに、目次にはさまざまな雑誌のロゴが目次として並んでいる。

ラインナップとしては、冒頭に「ワンダージャパン」と、いかにもな筋にもベタに対応しつつ、中盤には、パズル雑誌の転載(=だからこれ、情報の転載というより、まんまパズルのページ)他、短編小説とか。スポーツ誌の引用で、女子プロレスラーのインタビュー2頁とか、普通に読んでしまえる。

紙面自体がまんま転載だから多分、総合誌が「各ジャンルからもってきました。興味をもってね」というよりも、専門雑誌読者のための空気をちゃんと持っていて、読める。

とくに(このメールを書き始めてから気づいたけど)パズル誌の転載ってのは面白すぎる。

転載、から普通にイメージする何か、よりも直接的に機能するから。

他、オライリーの「子どもが体験するべき50の危険なこと」という、理系方面からの読み物。

「こんなに厳しい!世界の校則」とかいう、雑学的新書から転載。

と思いきや「ペット風水」がどうとか、ちょっとスピリチュアル入ってる記事も。

普段読まないから読もうといいつつ読まない、的なのを、誰かの紹介でなく、転載で読める、というか読んじゃった感。「金魚の死体をトイレに流す人がいますが、せめて包んで生ごみに出しましょう」とか。

末尾にはひらがなタイムスなど、語学記事も。

基本、雑誌のビジュアル重視の紙面からの転載が多いけど、新書を割付した文章など、雑誌紙面が、ほんの少し縮小されて、紙面に収まっている、チョコナンとした見た目もいい。

いや、こんな長文でひたすら褒め上げるようなもんでもないかもしれませんが、いやこれ皆さん知ってました? 類似がありそうななさそうな。もしかしたら既にミーティングで話題になりましたっけ。

ホテルのベット脇にある、そういう限定的なキッカケも微妙な作用か。

紙面のいくつかに「客室専用誌につき書店売りなしです」というアピール。

だが、一般の定期購読はできるみたい。

月刊で300円。だいたい100ページくらい。

各媒体からの転載が成り立つのも、普通の出版とは違う軸ゆえか。別のビジネス。

まあ、とりあえず、そんなものがありましたので、一応。

おやすみなさい。

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追記

「たのやく」はサイトも確かあったと思います。詳しくはご検索くださいませ。

あと、たのやく内の東横インの広告記事に「小学生の出張体験」という、地域還元的な企画があって、それもなんだか面白かったです。小学生に、サラリーマンの出張を体験してもらおうという企画で、でも、東横インは飽くまでホテルなんで基本的には泊まるだけという。でも、小学生にとっては、チェックインやチェックアウトも冒険ですもんね。