「初手で」は、合言葉であり、鍵言葉だった。
主宰する劇団の稽古、その初日。僕は筆が遅いので、俳優が予め渡された脚本を読んでから稽古場に臨む、ということはない。俳優は稽古場で初めて渡された脚本を読むことになる。また、脚本は本番まで完成しないことが多いため、稽古のたびごとに、少しづつ、そこまで書き上がったばかりの脚本を渡されることになる。
時間がないので、まあ取り敢えず読み合わせましょう、ということになる。先ずは黙読で下読みしてもらって、という時間はない。読む前に、このせりふはこういう意味でして、こういう風に読んでください、と事前に説明する時間もない。取り敢えず、読む。
勿論その出来は、たどたどしい。全くの初見なので、文字を読み切ることすら難しい。そのせりふを言い始めた時には、肯定で終わるのか否定で終わるのかもわからない。ともあれ、読み終えて、流れは理解できた上で、注釈や注文をつけ再び読みあわせる。
……先ほどより良いものができる。そして更に細かい演出をつけていく。次に読む時は、更にせりふに慣れ、且つ演出の意図も汲みつつ、より良くなっていく。
……と、これはまるで彫刻のようだ。ただの無骨な木材を、荒削りして、何となく全体の形が見えてきて、細部に手を入れ、こういう作品かとわかるようになり、研磨することによって、よりより完成度が磨かれていく。
ただし、完成品は最初の木材より小さい。接ぎ木をしない限り、どんな熟練の彫刻家によっても大きくなることはない。彫れば(どんな彫り方であれ彫る以上は)、必ずその分、小さくなっていく。斜に見れば、最初の無骨な木材そのままの方が、その小さな仏像より、味があって良かった、という主張も成立し得なくはない。
演劇の稽古においても同様のことがいえるかもしれない。より良くなっていくことで、少しづつ失われていくものがある。より完成度は高まっていくが、小さくなっていく。あれ、小さいぞ、と思って慌てても、大きくすることは出来ない。ともすれば、最初にたどたどしく読んでいた時の方が良かった、と思う時さえある。勿論、今更わざとたどたどしく読んでも、それは違う角度でノミを入れることに過ぎず、こうなると泥沼。
しかし「だんだん小さくなっていく」ことも問題だけれど、「だんだん良くなる」ということこそ問題ではないか。一回目より二回目、二回目より三回目。小さくなっていく、のは仕方ないとしても、まあ良くなっていく。しかし、何だこれ。良くなっていくことには限りが無い。ただ、現実的には本番がある。どこかのタイミングで、現時点を提示しなくちゃならない。
だんだん良くなる、ということがとても不誠実に思えてくる。どこかに、品質の責任を置き去りにしてきたような。だんだん良くなる以上、今あるものは、次よりも良くないもの、だ。それをわかって、何故それを提示する? だんだん良くなると知っているなら、何故、今、良くしない? 何を、出し惜しんでいる?
そこで「初手で」だ。今、渡した脚本を、俳優は初めて演じる。試し読みの機会すらない。全くの一発目。でも、この初手が全て、と思ってやる。初見だから上手く出来ない、というのは一体、誰に対して、何を担保にできる言い訳だ。完成が無い以上、それは本番中でも稽古に過ぎず、最初の稽古でも本番に等しい。程度問題でしかない。それが本番である以上、初見だろうが百回目だろうが、程度の差、とにかく「成り立たせて」しまわなくては。
もしそれが「成れば」大きいままで、完成度の高い作品が出来る。
……最早、精神論をも超越した、オカルト的演技指導。斯くて、読み合わせの前は「初手でいきましょう」と声をかけるのが常となった。まあ、その具体的な成果はさておき……ともあれ、これは日常の、色んなところにも使える。
例えば銭湯に入っている時。僕は、チャキチャキの現代ッ子なので、おっかなくて水風呂には普段、入らない。なんでわざわざ、あんな冷たい風呂に! まあ、健康? なんだろうけど……。でもま、ちょっとチャレンジしようかな……と思ったその瞬間!
「初手で!」
心で唱える。もう逡巡は無し。今この瞬間から身体が動く。最短距離で水風呂へ真っ直ぐに。そして、全くのためらい無く、水風呂に浸かる。一切の動きに淀みなく。そこに水すらないように、歩き、腰掛ける。恐る恐る手をつけて「つめた!」とかいいながら手を引き様子を探る、なんてわけはなく、その対極。
そして僕は水風呂に浸かることができた。
様子見でも、牽制でもない、初手、王手。
慣れない料理。だが、慣れた人みたいに、卵を、両手でなく片手だけで割って、中身を落とし、綺麗に殻を捨ててみたい。今迄、そんなことはしたことない。が、やってみよう。何個か練習すれば、出来るだろう。卵に体する力加減、指の開き。小さい頃、両手を使っても失敗した、けど、今はできる。片手でも、何個か割ってみせれば……と思ったその瞬間!
「初手で!」
心で唱える。試し、ではなく、完璧な、力加減を想像、いや仮定、いや断定せよ。それは、わからなければ難しいことだろうが、わかれば難しいことではない。なら、わかれ! 最初から。わからなくても。わからなければ、必ず失敗する。わかったことにしてやれば、それが当たっていれば成功する。そしてそれは、何も根拠のない数値当てじゃない。自然な流れがあるはず。自然な流れを、掻き乱すとしたら、自分が蒔いた要らぬ恐れのみ。
そして僕は卵を片手で綺麗に割ってみせる(それぐらい、誰でも初手でできますか)。同じ方法で、野菜の千切りもできるようになった。
取り敢えずビール、ではなく、駆けつけ一番お会計、の精神。
2012年に国立新美術館で開催された『「具体」~ニッポンの前衛 18年の軌跡』展を観た時も「初手」について考えた(この作文はただの戯言ではなく、余所見の原則通り、ちゃんと作品評でございます)。
「具体」は初手が良い。仔細は忘れたけれど、具体結成前に、どこかの展覧会にメンバーがみんな「具体」という作品名で揃えてそれぞれ作品を展示した……これが具体の初手。その後、メンバーが「具体」を結成する。結成前から、足並みが揃って並々ならぬ。
また結成後に刊行された機関誌は、創刊号から海外に向けても発信された。数号出して「そろそろ海外にも送ろうぜ」ではなく、創刊号から。
これもって「具体」だけでなく、一見、相対に過ぎない、各種芸術の価値判断も出来る。初手が、効いているか。
「初手で」は、謂はば気持ちを締めるための、良い言葉なのだけれど、逆に言えば、残酷で、疲れる言葉でもある。初手が駄目なら、最早駄目、ということだ。終わりよければ全てよし、の反対で、始め悪ければ、全て悪し。しかもただの反対ではない。「終わりよければ」は、何時でも修正可能だが、「初手で」は、後で気付いても、今更反省しても、悔やんでも、挽回不可能。
今まさに、動こうとするその一歩、それが「初手」だと気がつける幸運はあまりない。
芸術大学に入ることが決まった頃。同じく芸大を志望する知人が「俺は卒業してから何になる、じゃなくて、在学中に何か成し遂げて見せる」と息巻いた。「そうか。がんばってな」と言いつつ。いや、遅いんだよ、お前も、俺も。俺たちは春から晴れて大学生だが、もう既に手遅れなんだ、これからでなく、今、高校生の時点で……。才気溢れる同世代を見てきた僕はそう思った。一体、何時、何処で、何を間違えて、今に至るのか。三十路も半ばへ差し掛かる頃、あまりにも手遅れな問いだ。
平穏な住宅街における通り魔の不意打ちにすら先んじる、初手を!