「定期購読」のための雑誌

雑誌が休刊になる度、残念だ、という声を聞くけれど、実際その人がその雑誌を「定期購読」していたかというと、そうでもないことが多い。雑誌が休刊になる理由は、単に実売数が減ったから、だけではないのでけれど、買わないことには成り立たないので、残念も無念もないもんだ。

まあ、残念だというからには、一応その雑誌を買ったことぐらいはあるんだろうけれど、特集によって買ったり買わなかったりしているんでしょう。酷い時には、自分が書いたり関係したりしている記事が載っているから、というだけで嘆いているんだから、ただのナルシズムより身銭を切らない分、性質が悪い。

出版社にとって雑誌は、実売以外に広告で収入があるから、単価を安くして利益を上げることができる。書店にとっては、毎月毎週発売されるので、同じ種類の雑誌なら実績から安定した仕入れをすることができ、次号が出れば前号は返品と、長期的な在庫管理をする必要もなく、単価は安いけど利益率が高い。良いことづくめ。

でも今、売れないだけでなく定期購読という風習自体が失われつつだから、その「生産/仕入れ部数の安定」という柱がない。特集によって「買ったり買わなかったり」普段より売れ数は増えても、見込みが違えば返品は増大、結局赤字なんてこともあるかもしれない(実際のとこ知りませんけど)。

前置きが長くなりましたが、雑誌が売れない状況を堂々と嘆く為、そのアリバイ作りとして何か「定期購読」してみたいけれど、年間で考えるとやっぱ高いし特にこれといった雑誌が思いつかない……本日は、そんな貴方に、とってつけたようにうってつけ!「定期購読」目的に相応しい雑誌をご紹介しましょう。勿論、僕も定期購読しています。

「こどものとも0.1.2」福音館書店発行/月刊誌

流通形態上、雑誌ですが、まあこれ絵本ですね。それも「あじゃちゃん絵本」という、誌名通り0歳から2歳向けの絵本です。ページはぶ厚く、よだれが垂れても大丈夫。

世の中「雑誌」というと、多数の記事寄せ集め、つまり文字通り「雑」なところにポイントがあるんですが、もう一つのポイントは「定期刊行」されることです。定期刊行されていれば、内容が「純」(この場合は絵本)でも、そこそこ雑誌。まあ雑誌の定義はいいのですが、確かに「絵本」というのは、定期的に刊行されると育児上、便利です。パズル雑誌なんかもそうかも。あれもいろんなパズルがあって雑ではありますが、別にパズルがあればいいわけで、用途としては「純」。でも一度に沢山は要らない、と「定期刊行」にそぐった代物です。

でも何であかちゃん絵本? まず、価格が安い。本体390円。月刊誌なら安い方でしょう。あと、他の雑誌と違い、ボリュームは表紙併せて22頁と、文藝春秋等に比べればやや少なめではありますが、読み切れない心配がありません。

多少気合入れて雑誌を定期購読してみたら、多くの記事を読みきれず、どんどん溜まっていく内にゴミ感が出てきて嫌んなって止める、って人、これ真面目な話多いと思います。「読み切れる」ってのは内容問わず雑誌を定期購読する人の必須条件でしょう。

内容についても、僕はそもそも活字の本を読むのが苦手なので、これくらいが丁度良い。活字いっぱいの本をガンガン読む人にとっても「あかちゃん絵本」で描かれる世界は、あかちゃんにもウケるほどプリミティブというか、感性の根幹を狙ってくるので、なかなか面白いかと思います。

そして、僕如き年齢になると、周囲にもあかちゃん生む人が沢山。で、この雑誌をそのままプレゼントできます。普通「本のプレゼント」って素敵ではありますが、もらった方は読むプレッシャーとか保存のこととか考えると気が重くなりかねません。しかし、これは雑誌でもありますから「あかちゃん飽きたら気にせず処分してねー、ぼろぼろになるだろうし」と、雑誌故の消耗品であることを強調して贈ることができます。まあ多分は喜ばれて、自分も雑誌が溜まらない。まさに三方良し。

更に。この絵本には小さな折込み小冊子「絵本のたのしみ」が付録として挟まれています。PR誌ですが、コラムも幾つかあり、時々今をときめく系の人が記事を書いてたりします。その内の一つ、連載「あのとき、この本」。思い出の絵本を取り上げるコーナーで、これも面白いんですが、こうの史代の四コマ漫画付き! 「ときこの本」というタイトルで、漫画の内容も、その時取り上げられた絵本にちなんでいて、滅茶面白い(これちゃんと単行本になるんだろうか……)。実はこれが一番楽しみ。

いやあ、今回の余所見は即実用可のお得記事でしたね。買ってよし、読んでよし、贈ってよし、こうの史代にキュンとしてよし。早速定期購読して、何か雑誌が休刊になった時とか「雑誌冬の時代やのう」と思い切り嘆いてやりましょう。すると山本某が「そういうてめえは何か定期購読してんのか!」と怒鳴り込んできますから、「いやあ『こどものとも0.1.2』とかね、去年から」と出鼻くじいてやりましょう。

※ 赤ちゃんに読んであげるとき、付録の挟み込み冊子を抜いておくの忘れないようにご注意を! 話が途切れて、赤ちゃんも興醒めしてしまいます。下読みがてら’、抜いておこう。

※ いづれも当時の状況です(2017年追記)。今は定期購読していません(ためてたやつは三つの家族にわけてプレゼントしました)。「ときこの本」は単行本になりました。

明くる日のアクリル

「あれ、ここの店員、みんな顎を骨折して治療中なのかな?」

と、一瞬思った。近所の、チェーンの立ち食いうどん屋さん。店員が皆、顎を、プラスチック状の何かが覆っている。よく見ると、顎から透明のアクリル板? が伸びて、口元を覆っている。

これは……矯正器具ではなく、マスクのようだ。口のまわりにぴっちり付く布のマスクではなく。口の下の部分からプラスチックの支えが伸びて、口からほんの一定距離を保ち、アクリル板が遮っている。

何故? 普通のマスクじゃ駄目なのかしら。普通のマスクだと、顔面を覆ってしまうから、接客上よろしくないという考えで、透明なアクリル板にしたのかな? 確かに、表情はよく見えるが、すぐ顎のプラスチックが目について、とても奇妙。

或いは、口から距離が保たれることで(マスク本来の役割を一部果たさないような気がするけれど)息苦しくならないためにあるんだろうか。僕も、マスクすると息苦しさに耐え切れなくなるので、楽そう、とは思ったが。

なんとなく、タクシー運転座席に付くようになったアクリルの防護壁を思い出した。透明でも、存在感がすごいというか。それを存在させる、状況の凶々しさか。

または、近所のローソンで最近あった「からあげくん増量中」のベストも思い出した。「感情労働」という言葉があったっけ。作業だけでなく、笑顔とか、それも労働に含まれて大変だなあ、という話。これら更に一歩踏み込んで、奇妙な格好をさせられる感じ。衛生上の観点からやっているのだろうけれど、それだけに、もう止められないような。

あれも思い出した。くら寿司。皿にバーコードつけて、鮮度管理する、とか潔癖な発明をしていたけれど、ついに、皿をとるのにも、何か最近加わった、あれ。ベルトコンベアを流れる時に、外気に触れぬよう、皿を囲むケース、皿を取るときも、それに触れずに済むんだっけか、これも奇妙な。

ベタな未来人のイメージに、顔の上部分を覆うグラスのモニター、みたいなのがあるけれど、ここでは顔の下半分を覆っているという。実際の未来社会を覆うのは、割れて危ないグラスでなく、アクリルでした。

首位浮上

ボールペンは、胸ポケットに挿しておく、ようにしていて、他人から借りたペンも気がつけば胸ポケットで我が物顔している始末。

だが、最近は経年の所為か、それすら覚束ない。何時の間にかハイチャイしている。気がつけばペンがない。仕事中、ボールペンは必須なので、困る。たかがボールペン、されどボールペン。これがなければ伝票を切れないし、不在にしている人の席にメッセージを残せない。

職場には、ボールペンなぞ誰のものでもなく溢れているのが常だが、こうした紛失と失敬を繰り返した結果、戒厳令の城塞都市如く、周囲で浮いているボールペンが見当たらなくなった。困る。

で、必然的に「ペンからひもを垂らして首に巻いておく」という発想が生まれた。これなら、失くさない。

そういう、ストラップつきのペンがないかな、とネットで探したけれど、これが意外と無い。あるにはあるんだけれど、ペン自体が安物風で短かったり。そういう、状況限定的な、控え選手的なペンにのみ、ストラップ付きがある。僕はホンチャンでこれを使いたいのに。

ま、こんくらい作ればいいんだけれど。そんなこと考えながらふと寄った書店併設型の文房具店にて「ペン・ストラップ」が売ってあった。ストラップだけ、ちゃんとペン専用。しかも、ちょっとおしゃれなものとして。高かった。500円くらい。

それこそ自分で作れば、という感じなのだけれど。ストラップのみが堂々と商品化して高値がついている、というホンチャン感が、僕の心をくすぐった。銭湯では使用済みの石鹸とシャンプーをかき集めて使うような生活をしているが、嬉しくて買っちゃった。一刻も早く、ボールペンがないだけで仕事できない、という状況も打破せねばならなかったし。

おかげさまで、僕はいつ何時でもペンがすぐ出るという、ずば抜けたビジネスマンになることができた。

ただ、ちょっと心に引っかかるのは……。僕が今持っている携帯電話、何度も落としたぼろぼろのやつで、これからもガンガン落とすつもりだが、それで壊れたら今をときめくスマートフォンにしたいと考えているのだけれど、あれ落とすとすぐガラスが割れそうなので、実際割れてるの使っている人やたら多いので、それこそネックストラップで下げることにしよう、とかねてから思い描いていたこと。

さすがに、首からペンやら電話やらブラブラぶら下げていたら、ちょっとうるさい気がする。

と言うか、身体のあらゆる部位、または衣服にカバン、それら全部ひっくるめて「もの」を持っておく、には「首から下げる」ってのが一番安心確実至極便利ってことに気づいた。肩からずるりと落ちる心配もなく、胸ポケットからぼとぼと落ちることもなく、指で保持しておく必要もなく。必要とあらば、すぐ手が届くし。

ペンも、携帯も、身分証も、財布も、定期入れも、名刺入れも、文庫も、カッターも、定規も、鍵も、USBメモリも、カメラも、お箸も、何もかも全部首からぶら下げておきたい!

だのに、だ。首に下げる不本意の定番は、ネクタイ! 何にも役に立たないくせに、S席グリーン高砂玉座で堂々としてやがる! あれを外して、他に二、三有用なものをぶら下げたいところ。

でも、現実的に考えて、それは無理だから。仮にノーネクタイにしても、ぶら下げまくったらおかしいから。で、発案したのが「裏にポケットとストラップがついたネクタイ」。ネクタイの締める部分からストラップがついてて、ネクタイの本体部分(なんつーのかしら?)裏側のポケットに収納する。これで多少なりともネクタイ、役に立つ。XXXX(収納のカリスマ主婦とか実用書方面で有名な人の人名を後で調べて代入)もびっくり、奇跡の収納術。まあ、ネクタイの先がペン先になってる、とかでもいいけれど。

純粋文房具店

地方都市に行って、何か面白いおみせやさんないかな、とウロつき回っていると、まあ、そう都合よく面白い店に出会うことないのだけれど、ふと気付いたことがある。それは「文房具屋」の存在。

大阪で文房具を買おうと思ったら、書店の併設、ホームセンター、ハンズやロフト、はたまたヨドバシカメラ、ショッピングモールの売り場、となる。勿論「文房具屋」もあると思う。小学校の前にあるような小さな店とか。或いは、同じ小さな店でも雑貨屋みたいなお洒落な感じのところとか。または、本町界隈辺りには、コンビニみたいな構えで、まあ文房具屋と同じような店はある。

でも、それらと違う。それほど、おしゃれではない、またチビてもいない、どーんと店を単独で構えて、2フロアぐらいあるような、そんな文房具屋。

先日、高知に行って、そこでもあった。内田文昌堂。最初は本屋かなと思った。でも、文房具屋さん。表通りに鉄筋二階建て、その佇まいからして、ただの文房具屋さんなのに、何かしら、この違和感、と上述のようなことを思った。

で、入った。勿論、レトロとかそういうのでもなく、ごく普通。筆記具があり、ファイルがあり、はさみやのりがある。奥の方には、もう少し専門的な商品があって「未決箱」とか「提案箱」とか、やたら用途が既に限定されているようなスチールボックスがあって、誰がわざわざ買うのか、なかなか高いお値段。

二階は、画材や紙類があった。あと、コミック用品。高知は、まんが文化に力を入れているので、或る意味ご当地的な。まあ高知に限らず、どこにもあるでしょうが。

閉店間際に行ったので、一階のカウンター内でマイクを持って「まもなく閉店します」と館内放送していた。放送設備まである。

そういえば、堺市にもあった。こういう文房具屋さん。その名も「田中誠文堂」。この「姓+何とか+堂」が文房具の屋号ルールか?山之口商店街の北側入り口に面して、どんと店を構えていた。

最初、父が買い物をする時についていったんだっけか。こんな大きな文房具屋さんがあったのか、と感動して、あれこれ見回ったのを覚えている。画材や紙類は、ちょっとした離れみたいなところにあって、そこへ移動するのも、普通の店じゃない感じがして面白かった。

後に、ここで度々、厚いケント紙を買った。それでよく工作した。中学生の頃から自作の手帳を使っていたが、表紙となるケント紙はここで調達していた。このケント紙で、高校入学の頃、定期入れも作った。文化祭の展示、感想を入れるための箱もこれで作った。養護学校交流会の時、双六に使う大きなサイコロも、これで作った。僕が知る限り、最もぶ厚い紙はこれだった。僕は手先を使う物造り全般苦手で、やる気も起こらないが、紙ぐらいなら何とかなるだろう、と思っていた。

また、高校三年生の頃、最初で最後の文芸部に出た予算は、ここでだいぶ費やした。先ず、大きなホッチキス。50枚くらい止めれるタイプのやつで、今でも重宝している。これは確か、取り寄せしたんだっけか。二階でカタログを見たのを覚えている。あと、A3サイズの紙が入るケース。これは最近使っていないけれど、今もどっかにある。いずれにせよ、部員は僕一人だけなので、私物の積もりで買った。

他にも、劇団絡みで、何人かと行った記憶もある。何時、何を買いに行ったんだっけか。稽古場である青少年センターから、自転車でそんなにかからない。でも、それほど便利使いできなかったのは、閉店が早く、しかも日曜日は休みだったからだ、確か。目的を定めて行った。

正に、思い出も思い入れもある店だけれど、数年前尋ねたら閉店していたんだった。名前からして老舗って感じだし、手堅い商売だとなんとなく思っていたのだけれどよく考えたら全然そうではない。まあ、ごく普通の時流に沿って、閉店しちゃったんだろうか。最後に、何かのためにと思って買ったケント紙は、今でも事務所にある。

まあ……勿論、あの店で買えたものってのは、今、他で買えないわけじゃない。残念ってわけでもないけれど。ただ、高知の「文房具店」というドッシリした店構えを見て、そういえば今見かけないな、と思った次第。

※ 今調べたら、「田中誠文堂」は滋賀に会社があるとのこと。堺の店舗との関連はわからないけれど。

色彩について

Internet Archiveなどまで駆使して暇潰しをしていたら、十年以上前に書いた文章が出てきた。友人達と身内で読むために作っていた冊子に掲載した文章だったと思う。当時はワードプロセッサ専用機を使っていて、この文章がネット上にかろうじて残存しているのは、友人が自分のサイトに、わざわざ印刷物から打ち直して転載したからだ。それほどまでに世に広めるべく素晴らしい文章だった、というわけでは勿論なく、当時まだサイトを作るのが珍しく自己目的化していたから、なんしか載せよう、ということになったんだろう。ともあれ、僕にとって初めてオンライン上に載った記念すべき文章がこれになる。非常に頭の悪い文章だが、何分十年以上前といえば小学生……じゃないな、それなりの年齢、ですが、まあ、恥を忍んで恥じらい掻き捨て、再発見の記念に転々載。これで後十年は残るだろう(?)。一応、当時の「余所見」的な内容でもあるしで。

色彩について

で、いきなり専門外から入るわけだ。下手の横好きというやつね。デザインに詳しい人は読みながら突っ込んでください。

色って、薄い方が良いみたい。

薄い、というより淡い、かな。とにかく、もちろん用途によるけど、そういうほうが良いみたい。

テレビゲームが一番よい例だ。こぅ、続編がたくさん出てるシリーズものとかって色が薄くなってるよな。最新作の画面写真が、ゲーム雑誌で載せられる。で、となりに「前作のシステムでは……」とかなんとか、前作の画面写真が載せられている。この、二つの画面写真、画面構成とか似てても、色は最新作の方が薄い。で、見ていて「こりゃ最新作だなあ」と思う。

続編ってのは、前作より面白くて、そして綺麗な作品を創ろうと、スタッフは必死だろう。で、大抵、色が薄くなってるんだったら、そりゃ色が薄いってのは概して綺麗ってことだろう。

だから、「第四次スーパーロボット大戦は第三次スーパーロボット大戦より色が薄くなっている、つまり面白くなったな。しかし、最新作であるスーパーロボット大戦αは濃い。これは、面白くないな」と、ゲームの出来を判断する。

因みに、これはソフトだけでなく、ハードにも言える。

ファミリーコンピューターは、白と赤。赤が濃い!そしてスーパーファミコン、ええ感じに薄い! 初めて人の家でスーファミを見たときは、その薄さに胸が躍りました。

そして注目の次世代ブーム。セガサターン、暗灰色!プレステ、淡い紫(多分紫だよな)! 世間では、セガサターンがプレステに負けたのはソフトの所為だ、宣伝の所為だと騒いでましたが、密かに「色の所為だな」と思ってたのは私だけか(あ、黒いNintendo64は論外ね)。

普通、作品を創るのに次回作のことは考えないよな。その、今創ってるやつに心血を注ぐべきだ。だから、いつも思うんだけど、最初っから色を薄くしたらいいのに。もしかして、だんだん薄くしようと目論んでるから、最初は濃いのか。

私が昔読んでいた「小学五年の科学」の6月号(ドラクエ3が発売、アニメ三銃士が全盛の頃)特集「今やテレビは大忙し」「テレビはどんどん進化するぞ」の項目に「より薄く!壁掛けテレビ」の試作品が載ってあった。

薄いってのは、そのテレビ自体が薄くて、だから壁にかけられるのだが、これを読んだ小学一年生の私はすでに「さすが最新のテレビ、色が薄い」と思っていた。いや、このときが最初で、以後、その幻想に捕らわれたままだったりして。確かに、写真のテレビに映っている相撲の映像は「薄い」。

以上。

補足ですが、「小学一年生の私」が「小学五年の科学」を読んだっていう揺らぎ現象は、姉がいた故。

たのやく

以下の記事は、先日、余所見編集部用メーリングリスト、つまり内輪向けに投稿したものの転載となります。文体やテンションが、内輪向けの何かとアレなものになっていますが、ご容赦ください。

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やあやあ。皆様。ご機嫌麗しゅうクリーム。山本握微です。

最近は、何かとご無沙汰してすみません。

昨日も昨日とて、FLOATに押しかけ劇の稽古し、夕方新幹線に乗って広島へ、仮眠をとって深夜労働、今くたくたで東横イン、といった按配なんですが。

この客室に、聖書のほか、なかなか面白い本が、雑誌がおいてありまして、皆さん、常識かもしれませんがお知らせいたします。

客室専用紙「たのやく」という雑誌です。

これは、機内専用紙、的何かを狙っているのでしょうか。昔から、こういうのあるんでしょうか。

発行は「たのやく出版」とかなってますが、どうも東横インが実質出してるみたいです。広告は東横ばっか。

でも、こういう体裁ということは、どっかのホテルにも卸してるんでしょうか。それはわかりません。

で、この雑誌なんですけど、今みたらもうvol.88とかなってるんですが。

特集「人生を豊かにする本との出合い第六弾・読みたい!珍書」と、まあ、ありがちなブックガイドかと思いきや、今回の場合、全32媒体(書籍・雑誌、ネットもあるかも)から「転載」してるんです。

で、どうも、この雑誌、毎回そうやって、既存の書籍・雑誌から「転載」で成り立ってるみたい。

面白いことに、目次にはさまざまな雑誌のロゴが目次として並んでいる。

ラインナップとしては、冒頭に「ワンダージャパン」と、いかにもな筋にもベタに対応しつつ、中盤には、パズル雑誌の転載(=だからこれ、情報の転載というより、まんまパズルのページ)他、短編小説とか。スポーツ誌の引用で、女子プロレスラーのインタビュー2頁とか、普通に読んでしまえる。

紙面自体がまんま転載だから多分、総合誌が「各ジャンルからもってきました。興味をもってね」というよりも、専門雑誌読者のための空気をちゃんと持っていて、読める。

とくに(このメールを書き始めてから気づいたけど)パズル誌の転載ってのは面白すぎる。

転載、から普通にイメージする何か、よりも直接的に機能するから。

他、オライリーの「子どもが体験するべき50の危険なこと」という、理系方面からの読み物。

「こんなに厳しい!世界の校則」とかいう、雑学的新書から転載。

と思いきや「ペット風水」がどうとか、ちょっとスピリチュアル入ってる記事も。

普段読まないから読もうといいつつ読まない、的なのを、誰かの紹介でなく、転載で読める、というか読んじゃった感。「金魚の死体をトイレに流す人がいますが、せめて包んで生ごみに出しましょう」とか。

末尾にはひらがなタイムスなど、語学記事も。

基本、雑誌のビジュアル重視の紙面からの転載が多いけど、新書を割付した文章など、雑誌紙面が、ほんの少し縮小されて、紙面に収まっている、チョコナンとした見た目もいい。

いや、こんな長文でひたすら褒め上げるようなもんでもないかもしれませんが、いやこれ皆さん知ってました? 類似がありそうななさそうな。もしかしたら既にミーティングで話題になりましたっけ。

ホテルのベット脇にある、そういう限定的なキッカケも微妙な作用か。

紙面のいくつかに「客室専用誌につき書店売りなしです」というアピール。

だが、一般の定期購読はできるみたい。

月刊で300円。だいたい100ページくらい。

各媒体からの転載が成り立つのも、普通の出版とは違う軸ゆえか。別のビジネス。

まあ、とりあえず、そんなものがありましたので、一応。

おやすみなさい。

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追記

「たのやく」はサイトも確かあったと思います。詳しくはご検索くださいませ。

あと、たのやく内の東横インの広告記事に「小学生の出張体験」という、地域還元的な企画があって、それもなんだか面白かったです。小学生に、サラリーマンの出張を体験してもらおうという企画で、でも、東横インは飽くまでホテルなんで基本的には泊まるだけという。でも、小学生にとっては、チェックインやチェックアウトも冒険ですもんね。

ダムタイプ神話

これ↓に行って来ました。

「ダンス×アート コンテンポラリーダンスの源流を探る ダムタイ – 中西理の下北沢通信(旧・大阪日記)

山中透氏のコメントを聞きながら、「pH」「OR」「S/N」を流し見る。

冒頭に、「とかく神話化されがちなダムタイプを再評価する」みたいな趣旨のひとつが語られたように記憶するけど、それ前もどっかで聞いたことあっぞ。これだ。

4月18日(日) 19:30~ 『S/N』から語るアートと社会~わたしたちをつなぎあわせるプラクティス~

権利関係でソフト化が難しいかわりに、上映会はしばしば行われている様子。で、最近は「神話化されがちなので~」といった前説がよくあるらしい。ダムタイプの(元)メンバーも自身もそんな風に言ってるよ?みたいなこと、↑の上映会では矢鱈と強調されていた。

でも、映像見る度、もうこれ神話でよくないですか、と思う。無理矢理故事つけて神話「化」されてるのでなく、単に神話(神様の話ではないけど、すんごいって意味で)であるだけで。

メンバーが当時の苦労話や内輪話を披露したところで、その神話が強調されこそすれ解体はされない。まあ、それでいいかと。

滅茶格好良いですもんねー。更にこれが20年ぐらい前、ってことを考えたらば。

「神話解体」し得る要素があるとすれば(ほんと解体しなくていいけど)、何故、これこれらが「格好良い」のか。まあ「Dumb(=言語能力を失った、口のきけない、無口な、ばかな、まぬけな)とType(=型、 類型、タイプ)から成る造語Dumb Type」(wikipedia引用)なので、言語化するのが野暮なのだろうけれど。

これは僕にとっては、例えば「煙草は何故格好良いのか。特にライターで火をつける瞬間」とか「襟をたてると何故、ハードボイルド映画の主人公みたいになるのか」みたいな領域と一緒。

というか、多くのアート(それも比較的良質な)には、この問題がある。作品を、物語や、モチーフとなる社会的な問題意識、用いられている独特の技法、などから言語化することは取り急ぎできる。だが、そこでは語られない、ぱっと見のあの各種格好良さ。これは何だろう。

逆にその格好良ささえあれば「物語や、モチーフとなる社会的な問題意識、用いられている独特の技法」云々は無くても別によかったり。

映画に出てくる襟を立てたハードボイルドな主人公は格好良い。だが、それを観て、襟を立てて映画館から出てくる兄ちゃんは果たして格好良いのか。いや別にいいのか。

神話云々であるなら、この謎の襟について考える必要がある。でもそれは……本当に謎だ。

(まあ襟に関しては色々考えられますが)

今回、その点でヒントになっていたのは、古橋悌二が漬かっていたクラブカルチャー。映画。また、その方面のトレンドを、どんどん取り込んでいく、のを良しとしていた事(後に、トレンドはもう追わなくていい、という風になる事。トレンドがかつて面白かった時と、そうではない今)。

ああ、しかし、これもよくあるなー。ダムタイプのような、それ自体は「大衆的」でない、ハイな、作品の源泉は、むしろ大衆的なカルチャーである点。この場合は、クラブカルチャー、映画ってな按配だが、今これからは、コミック、アニメーション、ゲームとなるのだろうか。

素人疑問だが、何故、大衆的カルチャーを源泉にしてハイなのができるのだろう。言い換えれば、何故、主な大衆的カルチャーの需要層である多くの大衆が、ハイなのを作ら(れ)ないのだろう。

ふうむ。

Time Traveler × 5

京都・上桂、Collective Parasolで行われた、5人の映像作家による上映会。仔細経緯コンセプトなどはウェブサイトの告知をご覧くださいませ。

Collective Parasol: Time Traveler × 5

5つとも面白かったけれど、これやっぱり、永岡大輔「私の痕跡」が一番いいジャーン。

「ドローイングアニメーション」?……というジャンルにしちゃっていいんでしょうか。最近、わりと目にする気がする。ネットの投稿動画から、海外の作家作品まで(資生堂ギャラリーだったかで見た気がする)。アニメーションって普通、画面それ自体やセルそれ自体が切り替わってアニミズム、みたいなノリだが、ドローイングアニメーションは、同じ画面=素材上で、それ自体を消したり書き加えたりしてどろどろドローイングしながら、アニメーションする、そんなん。

この手法自体、観るのは慣れても作るのは検討もつかないアニメーション、という表現を身近に感じさせてくれる面白いものだが、「私の痕跡」は2つの点で、僕が見たこれまでの類より楽しかった。

ひとつは、描きかえ、描き加え、掻き消し、描き込む、かきくけこ、の工程がそのまま提示されてたこと。つまり、作家の手も出てくる。早回しだが、最初は特に、作家が線を描く様子をゆっくり見せるので、即座に、身近さが感じられる。他のドローイングアニメーションって、初見だと、じっくり見ないと気付かないもんや。軌道が微妙に残ってるぞ、ってことで消して上書きしてるんだな、って気付くくらい。

さて、もうひとつ良かった点は、描かれている様子そのものが、なんでもない光景だったこと。こういうのって、如何にもそれらしい物語が多いから。モーフィング自在なモンスターの絵だったりとか。諷刺画みたいに戯画化されてたり(なんか前京都の美術館でやってなかったっけ、あれ誰だっけ)そんなんばっか。

「私の痕跡」では、何処かしらオフィスの休憩所?みたいなところで、椅子に座って談笑する様子を描いたもの。この、自販機とテーブルと椅子がある、という空間、まるで平田オリザが舞台にする「セミパブリックな場」。折角のアニメーションだというのに、二人の女性が椅子に座って、一人の男が自販機で飲み物を買う、といった極めて地味な様子のみ描く。だが、それが良かった。とってもキュート。

一応、アニメらしい表現として、この三人の会話を、言葉を表すらしき黒いゴニョゴニョが、話者の口から出て相手の耳に入る、というのがあったけ。まあ、これはなくてもよかった。